「神と仏」     山折哲雄

講談社現代新書


この古くて新しい問題が宇宙時代に入って今および今後どのような意味を持つのか、
「神」と「仏」は今後どのような相互関係をとり結んでいくのか、
我々日本人は神々、仏たちとどのような関係をとり結んできたか、
この書は以上のような視点に立ち、6つの角度から考えている。

「見えるもの見えざるもの」では「仏」における可視性と神における不可視性という枠組みである。日本の神々は主体的に個性を主張したり、予言を下すものではなく、共同体社会という場の内部に深く沈潜し、没個性的な鎮守や産土神へと転生をとげた。ところが仏教と共に現れた仏像は、超自然的姿をあらわし、崇拝対象となった。神像が作られ、「ホトケ」もまた死者を意味して仏壇に飾られ、両者の融合が見られるようになった。神々は日本の風土に応じても千変万化し、女体を模して作られた観世音菩薩、幼児や子どもたちの守り神地蔵菩薩、懲罰神としての性格をそなえた不動明王などを生んだ。

「媒介するものと体現するもの」で、前者は託宣や口寄せを行う宗教的霊能者、後者は「聖者」とか「行者」とか言われる人々をさす。恐山イタコの口寄せは、ホトケオロシとも呼ばれ、死者の霊を呼び起こし、死者になりかわってその親族に語りかけ託宣を行う。これに対し津軽半島ゴミソのカミオロシは、天照大神、稲荷、観音、山ノ神、不動、オシラサマなどをおろしその加護をうけて祈祷したり、卜占を行ったり、病気治療を行う。神がかり体験はしない。日本の宗教史上ではゴミソ型の体験をして独自の宗教世界を気づき挙げたものが多いようだ。

「死と生」では、過酷な宗教経験で死と生がどのように現れるかを考える。心身一如を目指して断食、焼身までおこなう法華行者の修行、定に入り定からでることを目指した(入我々入)密教修行、念仏三昧をめざす浄土願生者、そうしたことは行わず禁欲生活に徹する禅の修業にわけて論じる。

「祟りと鎮め」では、日本文化の原点をカミの祟りと考え、その対抗軸としてホトケの鎮めがあるとするが、これは、単に宗教的儀礼のみでなく、政治的にも無視できなかった。具体的には、怨みをのんで死んだ人間が、祟り霊となって生きている人間におそいかかる、この怨霊を祭祀され鎮められなければならない、さらにこの怨霊はそうされることによって神霊の地位を獲得し、神格化されるとの図式である。

「巡りと蘇り」では、巡礼を宗教的軸として人間と神仏の出会いを検討する。巡礼を、いわば原体験にあたる「カミの巡礼」、そのようなカミに出会うための「聖者の巡礼」、さらにそれらを一時的に模倣する「庶民の巡礼」にわけて論じる。そのなかで現世順応的な観音霊場めぐりと、終わりのない円運動で空海の足跡を追うお遍路さんを分けて論じる。

「美と信仰」では、神道と仏教における美の捕らえ方について検討する。日本人のホトケとカミのイメージは、一方の如来像と他方の「尉面」の森厳相によって対比できる。能面における翁のイメージは、健康で慈愛にみちた老人として完成され、カミとホトケに対する耕作民的な人間を代表する典型であるといえよう。

最後に日本における固有の神道は、外来の仏教を、受け入れ、同化してきたが、その場合に日本人と日本文化の柔軟な理解力と旺盛な消化力が発揮された、と結論づける。

060510