雁            森 鴎外


新潮文庫

 明治13年、私がまだ医学部学生だった頃、隣人の岡田と無縁坂の女お玉の間におこった事件を記す、という形を取っている。私は後にこの話をお玉からも聞き詳しい。
 そのころ岡田は、毎日決まったコースを散歩する事にしていた。ふと無縁坂で銀杏がえしも美しいお玉と目が合う。お玉は父一人、子一人で暮らしていたが、警察官の女にされそうになり、年齢も年齢だったことから小使いの末造の妾になり、無縁坂に住むようになったのだ。末造は善良だが、金貸しをしており、吝嗇だった。お玉を囲ったと知って、末造と妻がやりあう場面が秀逸、双方の気持ちが良く描かれている。
 お玉は、岡田のことを最初はすてきな人くらいに軽く思っていた。ところがある時末造が買ってくれたつがいの紅雀を大きな蛇が襲った。たまたま通りかかった岡田がこの蛇を退治してくれた。お礼を言わなければいけないと言う気持ちが募る一方で、急に恋しさが増してきた。
 下宿ででた鯖の味噌煮が気に入らなくて私は、岡田、石原を誘って外にでた。岡田が石を投げて雁をしとめ、三人で喰った。そのとき私は、岡田がベルツ先生に従ってドイツに行くことを知った。お玉のことを言ったが、彼にとっては関係のないことだった。
 お玉に取って岡田は次第に特別な人になって行くのだが、これから医学の道で活躍しようと考えるエリートの岡田には所詮関係なくやがてわかれがやってくる。その過程が、明治初期の東大付近という舞台設定を得て、切々と描かれている。状況に合わせ、登場人物の立場や心を十分に考えた上での、短い、品のある文章が、作品が発表されて100年近くたった今でも新鮮に感じられる。
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