勝ちを制するに至れり     佐木 隆三


文春文庫(上、下)

ロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロウイッチは、父帝アレクサンドル3世の命により、7隻の軍艦を率いて、1890年11月4日極東に向けて旅立った。これにギリシャの第二王子ピエール・ゲオルギオスが合流した。スエズ運河を経て、ボンベイ、コロンボ、シンガポール、ジャカルタ、バンコク、サイゴン、香港を経て清国に入り、日本を経てウラジオストックに至り、シベリア鉄道起工式に列席するという。日本には91年5月3日に長崎に入り、末には青森に到着する。
外国の王族を初めて迎える日本国内は騒然としていた。75年に樺太・千島交換条約以来ロシアを恐れ初めていた上、真の目的は将来日本に攻め入るための下見ではないか、西南戦争で敗れた西郷隆盛が実は日本を脱出していて、今回ロシア艦隊とともに戻って来るのではないか等の憶測が流れた。
津田家は伊賀・上野藤堂家に仕えた代々の藩医であった。三蔵は1854年江戸で生まれたが、父の失敗で伊賀上野に住むことになった。西南戦争に陸軍伍長として出生し、軍曹に昇進、勲七等に叙せられてい。85年に滋賀県巡査、90年9月から三上村駐在所勤務を続けていた。愚鈍で堅物、家庭を愛したが周囲と容易になじまなかった。「ロシアの意図は明白」「西郷がおれの勲章を奪う。」などと恐れていたらしい。
国を挙げての歓待をうけ、皇太子は上機嫌であった。琵琶湖遊覧を終え、京都に戻ろうとしていた。三井寺近くで警衛にあたっていた三蔵が突然抜剣、奇声をあげて襲いかかった。車夫二人があわてて取り押さえ、ゲオルギオスが打ち据えたが、皇太子は側頭部に二太刀をあび、かなりの出血であった。
事件は以上であったが、津田三蔵に対する刑の適用で国論が二分した。時の政府としてはロシアに対する手前、何としても死刑にしたい。そのために
刑法116条 天皇・三后・皇太子に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す
の適用を考えた。問題はこの天皇・三后・皇太子に外国の皇太子が入るか、という問題である。論理的には入りそうにない。
「皇室に対する罪」を適用しなかった場合、292条しかない。
刑法292条 予め謀って人を殺したる者は謀殺の罪と為し死刑に処す。
津田三蔵の場合「謀殺未遂」と言うことになり、既遂者の刑より一等、または二等を減ずる。従って最高でも無期徒刑で、北海道で重労働させる他はない。
収監された三蔵は三浦順太郎予審判事の尋問を受けた。三浦は292条を適用し、大津地方裁判所での裁判に回そうとしていた。ところが内務大臣西郷従道等が御前会議にはかり、管轄違いを提起し、被告人を刑法116条適用の見込みをもって、大審院の公判に付すことにしてしてしまった。この場合には<皇室に対する罪>について、大審院が一審にして終審の、裁判権を有することになる。
この間に多くの事が起こった。ロシアは日本に難題を突きつけることは無かったが、皇太子は東京に寄ることなく直接ウラジオストックに向かった。皇太子から車夫二人が命の恩人として感謝され、聖アンナ勲章が授与され、日本政府もあわてて彼らをたたえた。国民の非をわびる、皇太子よ、東京に来てくださいと烈女畠山勇子が自殺した。裁判が近づくにつれて代言人が結束し、公平な裁判を訴えた。一方で津田の妻子は地域住民から家を追われた。
大審院では当然116条適用が考えられたが、ここで大審院長児島惟兼謙ががんばった。彼は1837年生まれの宇和島藩士次男で、戊申戦争に従軍し、司法省が開設されると江藤新平により採用された。彼は、91年5月時の松方総理と山田司法大臣に意見書を提出した。「津田三蔵の犯罪を断ずるに、刑法116条をもってせんとするがごときは、これを熟慮すれば、ほとんど国家百年の大計を誤るものと断ずるをはばからざるなり。」
児島の活躍でついに292条が適用され、三蔵は無期徒刑となった。こうしてかろうじて司法の独立が守られた。
大津事件を事件そのものよりも、その一連の過程を通して日本及びロシアにどのような波紋をもたらしたか、刑の適用について行政権と司法権が真っ向から対立したがどうなったかを中心に書いている。この時代は日本がようやく鹿鳴館時代を終え、欽定憲法が公布され、ようやく日本が国家としての自信を持ち始め、自分の立場で世界を見渡せる様になった時期である。この事件から3年後に日清戦争を起こしている。そのような状況で初めて外国から、それも直接利害関係のあるロシアから皇太子が来たわけだ。そして大津事件…・・当局の困惑ぶりがよく分かる。司法の独立を守る、と言う考え方も、過剰反応にも見えるが、外交を優先すべきで国家が無くなって法律が存在するか、という考えも理解できる。
あとがきによれば作者は一年半の間京都・三重・滋賀を歩き、多くの未発表資料に巡り会い、さらにモスクワ・レニングラードまで旅し、帝政ロシア時代の記録を発見したという。その努力が全編にわたって感じられ、この時代の世相まで読者に知らせる力作である。
(参考)
ニコライ2世:1868-1918 ロシア最後の皇帝(在位1894-1917)アレクサンドル3世の長子であつて、皇太子時代に日本へ釆訪し(1891)、巡査津田三蔵に刺されて負傷した。性格は善良で教養もあったが、皇帝としては不適格で、意志が弱く、ドイツ人である皇后アレクサンドラ・フェオドロヴナ(ヘッセン・ダルムシュタット公女)の影響下にあった。また晩年にはますます政治にも無関心となつた。その冶世はロシアが<軍事的・封建的帝国主義>へ突入した時代であり、国内では農民反乱、社会革命党のテロ(内相ブレーヴェ、首相ストルイピンの暗殺など)、社会民主労働党の指導するゼネストが続発したが、ニコライは父担ゆずりの専制政治を継続し、西ヨーロッパ式の立憲政治の導入にさえも絶えず反対していた。日露戦争中には〈血の日曜日〉事件をおこしてロシア第一革命(1905-07)をまねき、ウィッテの献策をいれて1905年10月17日の詔勅(国会の開設、民主的自由の保障などを約す)による譲歩を余儀なくされたが、まもなく革命の退潮とともにストルイピンの反動政治を復活させた。第一次世界大戦中には叔父のニコライ大公に代わってみずからロシア軍最高司令宮となり(1915)、内政は皇后とラスプーチンを中心とする〈宮廷奸党〉(カマリーリヤ)に任せ、ついに二月革命(1917)による帝政の崩壌をもたらした。17年3月15日退位を宣言し、首部郊外のツアールスコェ・セロー宮殿に幽囚されたが、ついでシベリアのトボリスクヘ、また十月革命後はエカチェリンブルグ(現、スヴェルドロフスク)へ移され、国内戦がここに波及するにいたって18年7月17日、、家族とともに銃殺された。(平凡社世界百科辞典)
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