岩波文庫
「こうしてわたしは地上でただひとりの人のなってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかにともに語る相手もいない。誰よりも人と親しみやすい、ひとなつっこい人間でありながら、万人一致の申し合わせで人間仲間から追放されてしまったのだ。」
こうして一人になってその思いつくところを書き綴るわけだが、10の散歩に分かれたエッセイ集といった趣である。
第1の散歩では、「わたしはモンテーニュと同じ計画をたてているのだが、その目的は彼のとは全然逆である。というのは、彼はその「随想録」をもっぱら他人のために書いたのだが、わたしはひたすら自分のためにわたしの夢想をしるすのだ。」としている。ものを書くとき、この視点は私は非常に大切である、と思った。
第2の散歩では、自分が引きこもり生活になるにいたったかを遭遇した事件などを織り交ぜながら述べている。「こうして私は、自分の経験に基づいて、本当の幸福の源は私たち自身のうちにあること、したがって幸福でありたいと願うことの出来る者を本当に不幸にすることは、他の人間にはできないということを知るようになった。・・・・・あの恍惚、あの陶酔、それを楽しむ事ができたのは迫害者たちのおかげなのだ。」と記している。
ルソーは著書「エミール」がパリ高等法院で禁書になったこと、あるいは「エミール」を非難した大司教と議論したことなどでスイスに落ち延びるが次第におかしくなったらしい。さらにこれにヴォルテールの無署名のパンフレット「公民の意見」による激しい攻撃が追い討ちをかけ、10で述べるヴァラン夫人がなくなったことも影響してすっかりやる気をなくし、表面世捨て人のようになったようだ。
第4の散歩では、嘘について述べている。「告白」にルソーは16歳のとき、リボンを盗んだ罪を、とっさに嘘をついて少女になすりつけたという。
「自分の利益のために嘘をつくのが詐欺、他の人の利益のために嘘をつくのが欺瞞、人に害をあたえるために嘘をつくのが中傷であって、これが一番たちの悪い嘘である。」しかしそのほかにも小説に見られる作り話のような嘘もあり、なかなか断定しにくい。
しか昔の小さな嘘をことさら書きたてることに我々は何をみるべきか?
第5の散歩では、ただ一棟の家しかないビエンヌ湖の小島、サン・ピエール島ですごした平穏な日々のことをのべている。「管理人とその妻、雇い人のほかは話し相手もいなかったのである。」が、「この二ヶ月を生涯で一番幸福なときだと思っているばかりか、それはほんの一時も他の境遇に移りたいと願う心をそそられずに、一生の間満足した気持ちで至ろうと思われたくらいの幸福なときであった。」としている。そしてこの頃から植物学への傾倒が見られ始める。
第7の散歩では植物学へののめりこみぶりを著している。植物を単に医薬の元としてのみ研究することを否定し、植物の持つ自然な形を追及してゆきたい、とする。一方で動物学や鉱物学を非難しているのは面白い。「・・・・わたしは、金を使う必要もなく苦労することもなしにのんきに草から草へ、植物から植物へさ迷い歩いて・・・・その一般的法則やその様々な構造の原因と目的の探求に成功し、そういう楽しみの一切を与えてくれる者に対する感謝にみちた驚嘆から生まれる魅惑に浸る。」
このような生き方は我々リタイアア組にも大いに参考になるところだが退屈に耐えられるかどうか。定年後、農村に回帰する人が多いと言うが私には無理かも知れぬ。
8,9は散文的に「私の同時代人はわたしにとっては機械的な生き物にすぎず、かれらはただ衝撃によってこうどうするだけで」「(彼らは)一切の道徳性を喪失した、いろんな動き方をする塊」と否定する一方、自分の子どもたちを孤児院にいれたことについて「新エロイーズ」や「エミール」の作者が子どもたちを愛さない事があろうか、と弁明している。
050416