「国家論」   スピノザ

岩波文庫

スピノザ(1632-77)はオランダ生まれのユダヤ人哲学者で、危険分子とみなされ不遇のうちに生涯を終えたが、死後に認められた。
この書の要約を訳者 畠中尚志の巻末の「スピノザの「国家論」について」を参照しながらまとめてみる。

自然な状態においては、万物一切はおのれのなしうることをなす十分の権利を持っている。権利とは力の別名にほかならぬ。人間も同様であって、自己の力量の限りあらゆることをなすこと権利で、自然権と呼ばれるべきものである。
しかしこの権利を盲目的に主張すれば、いきおい他人の利益を否定し、権利を侵害する結果にならざるをえない。そのため人は必然的に激しい争闘に巻き込まれる。これを「万人に対する万人の闘い」となづけ、「人間は本性上敵である。」と表現する。自己の存在を維持・拡大しようと思えば自己の破滅に脅かされ、絶えざる不安と恐怖の中におかれるから、各自がもっているはずの自然権は何の権利にもなり得ず、むしろ他人の権利のもとで暮らすことを余儀なくされる。

この耐え難い状況から脱するために、各人が互いに力をあわせて協調の中に生活しなければならない。人間は本性敵であるけれども、彼にとって人間ほど有用なものはなく、一致して力をあわせるなら、単独である場合よりも一層多くの多くの力と権利を持つ事ができる。ここに共同の力、共同の権利という概念が生じる。この人間が多くなると、多数はなるべくひとつの精神によって導かれることをよしとするから、原則的にはこの共同の権利を特定の人又は人々に委託する事が必要になってくる。これがすなわち国家権力である。国家権力は法を制定し、各人の権利・義務を定め、なにが善であり、悪であるかを決定する。各人はこの国家権力に、絶対的に服従することを義務付けられる。こうして人は自然状態から国家状態に移行し、社会生活における安全と平和が保障される。

しかし、国家が平和と安全のみを意図し、個人の自由を軽んじられる恐れがあるから、国家権力は、必然的限界内においてのみ絶対的なのである。その故に「その平和が臣民の無気力の結果に過ぎない国政、そしてその臣民があたかも獣のように隷属することしか知らない国家は、国家というよりも曠野と呼ばれてしかるべきである。」言い換えれば国家の中で各人は「他人の権利の下にある。」と同時に「自己の権利の下にある。」べきと説く。

国家権力の把握者が一人の人間であるか、それとも国民から選ばれた若干の貴族であるか、あるいは国民全体であるかによって三種の国家形態がある。君主国家・貴族国家・民主国家がこれである。スピノザは民主国家に傾倒していたといわれるが、どれでなければならないとは断定しない。その国家の組織さえよければ国家ならびに国民の平和は保たれるとする。組織を論ずるにあたって、スピノザは理性の導きは必要だが、人間には名誉心と利己心があり、一方でそれは法律や刑罰などを恐れる反対感情によってコントロールされるべきであると考える。

君主国家と貴族国家についてほぼ完全に細部にわたるまで陳述されている。最高会議の役割、機能、権限、これをコントロールする護民官、元老院、裁判所などについて具体的にこうしろ、と述べている。言っていることはなかなか明快である。
しかしこの書は残念ながら著者他界により、民主国家について論じることなく終っている。
死後数ヶ月経って遺稿集の形で初めて世に出た。それでも現代の国家を考える上でも非常に参考になる一冊と考える。

050416