国民の道徳           西部 邁


産経新聞社

著者の思想は簡単に言うと次のようなことなのだろうか。
「敗戦で自信を喪失した日本に、自由万能主義を標榜するアメリカニズムが押し付けられた。その典型が、出来もしない理想を掲げる平和憲法だ。それを知識階級が後押し、民衆を扇動し、普及させた。しかし自由万能主義はアメリカですら破綻しかかっている。
日本では、人権主義の元、アメリカニズムが巾を利かせ、武士道を通して連綿として築き上げられた文化あるいは道徳が忘れられた。売春も殺人も人に迷惑をかけなければいいだろう、とさえ考えられるようになり、嘆かわしい社会を招来している。
今こそ我々は日本人とは何か、を再び自問しなければならない。グローバリズムなどの幻影に躍らされることなく、国際性を認識しながら、国益を重視した政策を取らなければならない。そのため学校にあっては人民ではなく、国語・歴史・古典的な道徳を中心とする国民を作るための教育をしなければならない。家庭や地域にあってはその大切さを再認識し、またさせるような施策を打ち出さなければ行けない。」
この本は日ごろ私が疑問に思っていたことに応えてくれそうな気がして買ってきた。日米の関係はどうあるべきか、憲法は変えるべきかいなか、変えるとすればどういう方向であるべきか、西欧人にはキリスト教と言うバックボーンがあるが、日本人には何があるのか、それにもとずく学校や家庭の教育はどうあるべきか等々。その意味では期待に応えてくれる書物であった。少し文章が難しいところもあったが、論理は明快と思う。勉強にもなった。「自分で作った憲法を!」「資本だけの市場経済は万能ではない!」「重視すべきは世論ではなく輿論だ!」「恥の文化が無くなった!」「学校では歴史、国語、伝統を教えよ!」などいづれも首肯できる意見であると思う。
ただ、あまりにこの書に述べられていることを強調しすぎると、変化と言うものを見失いかねない、という感じもした。時代の変化、国民の認識の変化いづれもが非常に早く大きい。それにあわせることが「大衆」に成り下がることであり、過去に学び、伝統を重んじることが大切だ、と言うと言い過ぎと言う感じがする。新しい時代の新しい国家感、社会感、家庭感、教育感と言ったものについても言及がほしかった。
一例をあげると天皇、国歌、国旗…。日本人による憲法を、というのであればそこに天皇をどう位置づけるべきかの議論があっていいと思う。国歌はもちろん必要だが、これからも「きみがよ…」と言う歌詞が適切なのかどうか。国旗はデザイン的にも素晴らしく反対する理由はないのだが、それを現代の目で見て再認識する機会が必要なのではないか、などである。また基本的人権、ヒューマニズムが巾を利かせすぎた、との議論は分かるにしても、その功もまた認識されるべきではないか。なぜなら戦後五十年の歴史のなかで、すでに認知されてきたものなのだから。

(要約)
一章 歴史…道徳の歴史と日本の国柄
道徳は、一方では宗教の活動と関わり、他方では思想の作業とも関わっている。一万年を超える昔から存在した神道は、自然崇拝に祖先崇拝が加わった。ゴッドのような絶対神ではなく畏怖の念を差し向けるべきものであった。やがて外来の仏教や儒教と融合していった。
神道は明確な教義を持たず儀式制度として長く持続した。これに比べ仏教は、日本人の精神の奥深く入り込み、国家的権威となった。儒教は政治制度の推移と深く関わり、国民生活に大きな影響を与えた。日本人の道徳観念は儒教と強く関わりあっている。
三つのほかに、洋学や実学もあり、それらを考えると日本的精神は異質のものを混成させ、包括させ、原理・体系の欠如を補うべくリアリテイへ執着している。このような中から我々の精神を支えている慣習の形式を議論するのが道徳論である。
幕末、まず攘夷か開国かが葛藤の根本因となった。攘夷は否定されたが、権力の集中なのか分散なのかという問題は残った。いかなる国家にも国家を支える何程かの共有の価値観が無ければならない。それを如何に探し出すかが明治政府の主要な課題になった。
しかし明治も二十年にもなると「日本の立場」を強く主張し始めた。欧化から国粋化への思想転換が生じたのである。経済の発展と共に明治はさらに複雑になった。日露戦争当たりからは国民主義、キリスト教、アナーキズム、ソーシアリズムが複雑な衝突を演じた。一方で神道・儒教と絡み合いながら天皇の政治的利用が進んだ。
近代日本八十年の中で日本は自我探しをはじめたが、原理・体系をもたぬまま押し流され、「国民性」があまり明確にされなかった。そして敗戦、アメリカがやってきた。戦前にもまして歴史への振り返りが一面的になった。アメリカ的な考え方と行い方、というよりもその上澄み液だけがこの国に降り注いだ。肝心のナショナル・アイデンテイテイがアメリカニズムによって切除されてしまった。しかもそのアメリカが平成の時代の始まるころから日本に敵対的になってきている。
日本に今必要なのはまたしても「日本人とは何か」と最初から問い掛けることである。

二章 戦後…敗戦日本人の道徳に何が起こったのか
天皇は昔も今も国家の象徴であり、象徴というものは軽んじて良いものではない。無宗教の儀式というものはありえない。明治以前皇室と仏教のつながりが強かったが、以降は神道という古来の宗教を皇室にまつわる儀式にあてがうことになった。
政治と宗教は根本では繋がっている。靖国神社に参り、公式に哀悼の意を表することは道徳的義務で当然である。また国家儀式に使われる君が代、国歌もまた国家の象徴である。
戦後日本人が国家や国防のことを真剣に考えなくなったのは、日本人の戦争責任ということが念頭から離れないからである。国内法的にも国際法的にも天皇に政治的責任はない。ただ道徳的責任論で言えばサンフランシスコ条約締結以降ご退位すべきでなかったか。
極東軍事裁判は「みせしめ」裁判である。しかし非難されるべきはそれを「見せしめ」裁判と認定できない日本人である。彼らに奢りや傲慢があったことは事実だ。しかしそれに対する復讐を他所の国に代行してもらうというのは不道徳の極みだ。ましてや戦争での死を「犬死に」としたり、「国民の歴史」に恥を覚えさせるような教育をするなど論外だ。
祖国のために戦うということはやはり崇高なことだ。日本人は戦争について思考が停止しているからこれを否定するような考えが出てくるのだ。国家を愛することも国家のために戦うことも、道徳の「冷静」な発露と考えなければいけない。
「民主」憲法には歴史を背負う者、つまり国民がいない。そして単なる人民の欲望が人権の名目で保護される仕組みになっている。米定憲法で日本国の固有性は示されておらず、当然時代に応じて見直すべきなのだ。常識・良識から遊離した第九条などの条文には機能停止の宣告をすべきである。
最後に戦後歴史を軽視する米ソの考え方に擦り寄り、煽ったのはいわゆる知識人と称するグループだ。しかしそのアメリカニズムが内部からですら批判されている今日、みずからの言説に批評を加えたことはまずない。

三章 政治…道徳を傷つけた「アメリカ的なるもの」
敗戦のあと、「個人の尊厳」が憲法や教育基本法に書きしたためられ、それが普及されて、権利の肥大化を促すようなさまざまな平等主義的政策が実施されてきた。しかしその根幹をなすヒューマニズムは人間の傲慢な自己礼賛だ。
個人という自分には個人性と集団性、そして公人性と私人性の二面がある。バランスがとれないとミーイズム、グルーピズムに流れる。「人間の尊厳」は「人格、規律、帰属、利己」の葛藤と平行から生れる。過度に自由な行為が秩序を破壊している。道徳の基準は歴史・慣習・伝統によって示されている。
進歩の歯車が道徳を砕いて行く。アメリカ式では「進歩は良きこと」と信じられているが、根拠は薄弱だ。その前提となる自由民主主義は、一歩間違えば全体主義に陥ることを忘れてはならない。それに気づかず、その思想に日本は飛びつき、歴史を顧みることなく物質的再建を目指した。日本的集団運営方法によって一時は成功したが、やがて膨張し、バーストし、今度はよるべき道徳的心棒がなくなって陰うつな敗北感の中に引きずりこまれた。ここを回復させるには「温故知新」の智慧しかない。
確かに自由、平等、博愛は理想だが現実は規制、格差、競合、そのバランスの上に秩序、公正、活力が現出する。重要なのは平衡を保つことで、伝統にはそのダイナミズムが潜んでいる。この英知を粉砕したのが、フランス革命で、反省的に捕らえなければならない。
現代はマスメデイアが第一権力を掌握したかのごとく見える。その結果、多数派の欲望がいじめに、少数派の欲望が反逆に取って代わろうとしている。個人の自由に技術の合理が加わって道徳を無に帰そうとしている。精神が低きに堕ち、混濁にまみれた大衆が権威を足蹴にし始めた。こういった傾向は全体主義を招来したり、衆愚政治にわれわれをいざなったりしかねない。
わが国では国益を言うのはナショナリズムだ、国益を廃せという声が途絶えたことがない。愁うべきことだ。指導者の条件は健全なナショナリズムであることだ。問題は不確実性に対してどのような答えをだせるかだが、インターネット時代だからこそ保守の方が良い。
指導者は、ナショナルな秩序、ナショナルな公正、ナショナルな活力を確保するためのナショナル・ミニマムを保障しなければならない。シヴィルミニマムではない。そしてこれを的確に表現して行く技術が期待される。九十年代の日本はナショナル・ミニマムの整備を怠ったがゆえに、政治・経済に限らず、社会・文化まで混迷に叩き込んでしまった。、

四章 文化…道徳の本質を考える
伝統は過去からの、そして未来への相続財産である。現代があらかたその財産を焼き尽くしたせいで、人々はおおいに戸惑っている。
伝統は、古い制度に含まれている英知をもって、新しいもののどこを取り入れて行こうかという平衡感覚である。人間の精神も同じであって、過去によると拘束と未来への自由を意識し垂直運動を繰り返すと共に、区別化、画一化をもとめて水平運動を繰り返す。
「自分」というものは公人性と私人性および集団性と個人性という相対立する側面を持っている。個人性と私人性よりなるものが、利己心で人民性とも呼ぶべき物である。一方公人性と私人性よりなるものが、起律性とも呼ぶべき物で国民性と考えられる。個人はその平衡感覚の中に成り立つべきで、「公」部分はその人間性に内在していると言える。国民性においては国語が重要な位置を占め、共同の物語としての国家を意識している。
ところが具体的内容が恣意的にきまる基本的人権がオールマイテイと認識され、既存の道徳体系を打ち壊している。国民のルールは、歴史の中に自生するべきものなのだ。法律の基礎は道徳にあり、道徳の基礎は伝統にある。人間性を手放しで礼賛するヒューマニズムは不徳・不法の思想である。国民のルールとは国民の常識、良識の事であって、人為的に作られた人権に優先させるべきものである。
近現代は道徳・倫理を足蹴にした。知育が優先されたが、徳育なければ知育なしだ。教育現場において大切なのは教師の人格を陰に陽に表現することだ。そして国語・歴史・古典的な道徳を学ぶべきことだ。大事と思われる観念や事物を「保ち守る」保守思想が徳育を支えることが出来る。戦後教育は「革命」思想を教えてきた。今こそ変えなければいけない。

五章 経済…道徳なきグローバリズム
1990年代、グローバリズムとか地球市民になろうと盛んに言われた。しかし世界が単一の価値及び規範によって律せられるべきもない。国家は乗り越え不可能である。
しかし大東亜・太平洋戦争に負けた日本は、実はアメリカニズムの裏返しに過ぎないグローバリズムを拝跪しようとしている。国家というものに不信の念を募らせ、民衆を自分にしか愛着を持たない「私民」という空無な存在へといざなう。
国家は、歴史に根差す感情共同体である。そういう共有感情を軽んじた上で、法律万能で社会を設計しようとしているアメリカの流儀はすでに破綻を来たし、今や世界有数の無法国家となっている。「シンプソン裁判」を見よ。法律は万能ではない。国柄に基づく慣習と介入、それこそがその法律の限界を補ってくれる。
国家の不在が「市場の失敗」を繰り返す。諸個人の欲望の社会的調整をすべて市場に委ねようとする市場原理主義には、大きな疑問を呈せざるをえない。そんな中、アメリカと中国はスタンダードの押し付けなどステート・キャピタリズムを前面に押し出す。日本の力は終身雇用、年功序列賃金、企業別組合などに支えられた「組織化能力」だった。それが改革の美名の下に投げ捨てられようとしている。
組織は道徳によって支えられてきた。不確実性への防波堤となった。この組織が破壊されると、道徳は私的に還元される。組織を守る「日本的なるもの」を保守しない限り、経済のグローバル化にすら対応できないだろう。
アメリカに扇動された技術至上主義という「文明」が発達し、既存の文化を駆逐しようとしている。日本的精神の歴史的蓄積と価値的な基準が失われて行く。その結果、文明全体の没落をもたらし、人間精神の単純化をもたらし、自然破壊をもたらしている。環境破壊は現代文明の落とし穴である。

六章 社会…我々は道徳を取り戻せるのか
バブル絶頂期のころ、日本は平和に酔い、ガルブレイスの指摘する豊かな社会に潜む病理に気づかなかった。
そのころ信じられたアメリカ流の市場万能主義は間違っている。市場は実は単純な私的欲望しか整理できず、公的欲望や私的欲望でも社会的財にあたるものは対処できない。さらに市場は、資本のみでなく市場を支える権力的、慣習的、技術的、価値的などのインフラ八柱があってはじめて成り立つ。その活力は国益ぬきには考えられず、資本「主義」だけが市場活力であるような社会は、結果としてナショナル・ミニマムが破壊され、「国民とその政府」が危殆に瀕する。
最近の物神崇拝の横行は目に余る。少しは精神崇拝を心がけても良いのではないか。勤労は賃金をうるため、と同時に自己がそれによって社会と繋がっていることの証、でもある。そうしたつながりの中に、道徳というものが芽生える。フリーターのような物神崇拝者にはそれが理解されない。
「大事なことは輿論にまかせよ。」 問題なのは輿論である。輿論は、庶民のになっている常識・良識にもとづくもので歴史的に正しいと考えられるものを言う。世論というのは、多数によって支持される意見、ということであって政治的に正しいものである。しかしそれが「恥知らずな世間にあわせて恥知らずな振る舞いをすることが道徳だ」というような倒錯した概念に流れると、間違った方向に向かう。
周囲に同化しつつ自分の精神の中の良貨を悪貨で駆逐させる人々を「大衆」と呼ぶ。大衆は大衆を批判するものを嫌い、売春や殺人までをも自由とよぶ「恥なき世間」を作り上げた。西欧には罪の意識を原点とした良識、日本には武士道に代表される恥を原点とした良識があったが、最近はそれが吹っ飛んでしまった。このことに西欧は気づき、大衆に対する防波堤を築こうとしている。日本も考えるべきだ。
「他人に迷惑をかけなければ何をやっても良いのか。」「人はなぜ人を殺してはいけないのか。」日教組教育に典型を見る近代教育は、「自我」と「自主」の拡大・発揮を促した結果、それらが結局金銭・技術にからめとられた感がある。責任ある自由は狂気、妄想を押さえる自己規制が必要で、その為には躾が欠かせない。今や両親の義務は子供に公徳を躾ることと考えるべきだ。
家族制度が攻撃されているが、家族は社会の縮図で文化的、政治的、経済的、社会的の四つの機能を持っている。中心となる父と母にはそれぞれの役割分担があり、それぞれ守られる必要がある。家庭を引き受けられないものは何事も引き受けられない。健全な家庭のなかではじめて、子供は健全に育って行く。複数の家庭の繋がる地域社会は道徳の訓練場である。地域コミュニテイの破壊が「恐るべき子供たち」を生んだ。同時にコミュニテイ作りに住民の道徳感があらわれる。歴史なきローカリズムは道徳を破壊し、「住民とは何か」を問わない住民運動はエゴである。
最後に死生感が、道徳を鍛えることを忘れてはならない。現代人は死におびえているが、それを払拭するためには、まず死について語り合い、周囲との了解を高めることが大切だ。社会的に言えば、いたずらな延命や臓器移植は間違いで、生命至上主義がニヒリズムを蔓延させている。
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