コンスタンチノープルの陥落   塩野七生

新潮社ハードカバー

西暦330年、東ローマ帝国が誕生した。創立者コンスタンチイヌス大帝の名を取って、それまでビザンチウムと呼ばれていた都市はコンスタンチノポリスと呼ばれるようになった。453年に西ローマ帝国が滅亡した。それから1世紀もたたない6世紀半ばには、西はジブラルタル海峡から東はペルシアとの堺まで、北はイタリアのアルプスから南はナイルの上流まで、その勢力圏は最大に達した。しかし十字軍が始まる11世紀ともなると、この勢力圏は大幅に縮小され、14世紀半ばにはオスマントルコによりヨーロッパ側に追いやられ、15世紀初頭には現在のコンスタンチノープルのヨーロッパ側をのぞけばペロポネソス半島の一部を所有するに過ぎない状態になっていた。

一方西暦1300年の前後、小アジア内陸部でオスマン・トルコが勢力を伸ばし始めた。しかし彼らは着実に勢力を伸ばし、ブルサを攻めとり、さらに1362年アドリアノーポリを陥落させ新しい首都とした。1402年チムールのモンゴル軍にたたかれるが、20年の歳月を経て勢力を回復した。スルタン・ムラードの頃は宰相カリル・パシャが親西欧・親ビザンチンであったため大過なくすぎたが、その子ムハメッド2世が、1451年に即位すると事情が変わった。新しいスルタンは露骨にコンスタンチノープルを望んだのである。

まず黒海に抜ける東方貿易の通過点であるボスフォロス海峡の一番せまいところに砦が築かれ、通行を支配するようになった。宣戦布告と共に、ビザンチン側も対策をとり始めた。西欧諸国に援軍を依頼するがはかばかしい返事はえられない。ボスフォロス海峡と市の北側が接する金角湾の境に鉄鎖を設置し、オスマン船団が入れないようにした。アドリアノーポリに通じる西側には三重の城砦が設けられ、マルモラ海に接する南側、西側は城壁があるか、そう簡単には攻め落とせないはずであった。しかし兵力の差が違いすぎた。
そしてボスポロス海峡から金角湾に船を山を越えて引き入れるという作戦が度肝を抜く。引き入れられた船団は金角湾に浮橋を設置し、交通を楽にした。オスマントルコ軍は、聖ロマノス軍門に巨大大砲と軍の主力を設置し、攻め立てた。よせあつめの不正規軍団が主力だが、後ろから近衛軍団イエニチェリが責め立てるから、攻撃陣は手を抜けない。それでもコンスタンチノープルは50日も持ちこたえ、オスマン軍の一部にも撤退の声さえ上がったほどである。

しかしついに16万の軍は5月29日に総攻撃を開始。やがて守将ジェステイニアーニが倒れ、軍門が破られ、オスマン軍が怒涛の勢いで市内に入り三日間の略奪が始まるのである。多くは対岸のガラタのジェノヴァ居留区にむけて逃亡するが、聖ソフィア大聖堂に集まり最後の時を待つ者も多かった・・・・。

読み終えて、冒頭にある作者の言葉が思い起こさせる
「一都市の陥落が、長い年月にわたって周辺の世界に影響を与え続けてきた一文明の終焉となると、人類の歴史の上でも、幾例を数える事ができるであろうか。」
しかしイラン・イラク問題、トルコのEU加盟問題などイスラム教文明とキリスト教文明の対立という構図は、いまもまだ続いているように思われる。

051012