岩波文庫
読後感の前にみなさんに問題を一つ。
「正方形ABCDがある。この2倍の面積を持つ正方形を描きなさい。」
この書物はほとんどがソクラテスとメノンの会話という形式をとっている。メノンがまず「人間の徳性というものは、はたしてひとに教えることができるものであるか。」と問いかける。ところがソクラテスは「ぼくは徳それ自体が何であるかということさえ、知らないのだよ。」と問題をすりかえる。
メノンは「男の徳は国事を処理する能力を持ち、処理するに当たってよく友を利し、敵を害し、しかも自分はそういう目にあわぬよう気をつける能力をもつこと」、そのほか女には女の徳、召使には召使の徳があると答える。しかしソクラテスはそれらに共通する徳があるはずだ、正義と節制によって達成されるべきものだ、と否定する。
これに対応してメノンは「徳とは美しいものを欲求してこれを獲得する能力があることだ。」と言い換える。ソクラテスは悪徳ではいけないから正しく敬虔にと付け加える。しかしそこも矛盾をつかれメノンはアポリアーに陥る。
ここにおいて「人は自分のしらないものをいかにして探求できるか」というメノンの問いをきっかけに想起説が展開される。次ぎにソクラテスはメノンの召使に上述の幾何の質問をするが答えられない。しかし説明してやると理解するする。このことから召使には「正しい思わく」が内在していて、それが呼び起こされて知識になると考える。徳の本質の追求そのものに即して想起の努力がなされねばならぬはずだ。
ここでメノンは「徳とはなんであるか」という問いを回避し、「どのような性質のものであるか。」に力点を映す。結果(1)徳は教えられうるものである。(2)徳は知識である(3)徳は善きものである。との結論が出る。しかし徳は教えられうるもの(知識)である、という考えは徳を教える教師が現存しないという事実の前にたちまち覆される。また知識とする説も「ラリサに行く道」などの話で退けられる。
最後に有益なものでありながら教えられないものとして、再び「正しい思惑」なるものが登場する。正しい思惑を持つ人は「ラリサに行く道」の例でも、知識を持っていなくとも、正しく見つけられる事がある。このような思わくは結局は神の恵みによって人間に備わるものである、ということができようか。
050416