モナリザの秘密   加茂儀一

副題にダ・ヴィンチの人間像とあるようにダ・ヴィンチの伝記といったほうがふさわしい。世界の名画「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が手元にあったのでそちらも参考にしながら・・・。

ダ・ヴィンチは、1452年フィレンツエ西北のヴィンチ村で、公証人セル・アントニオを父に、カテリーナを母に庶子として生まれた。一家に愛されて育ち、青年期には背は高く、腰は細く、鼻筋は通り、りこうそうで「世の中でもっとも麗しい顔」をしていた。
1469年ころ、画家志望であったダ・ヴィンチはヴェルロッキオの工房に弟子入りした。彼はジオット、マザッチオ等に始まった芸術を在来の職人的な芸術から知性をともなった創造的な芸術に高めようとする革新運動の先頭にたった人物である。ダ・ヴィンチはここで絵画や彫刻の手法を学ぶと共に、コロンブスに影響を与えた万能の天才の一人トスカネリの影響を受けた。早くも才能を発揮し、師の「天使の洗礼」では手伝いで天使を描いたが、できばえが自分より優れている、と驚いた。
1472年ころ「受胎告知」をものにする。お告げという重大な事件が、メロドラマチックに描かれており、当時としてはレオナルド以外には表現できなかったものである。これと前後して「婦人像」を描いているが、後年の「モナリザ」の先駆をなす作品といわれる。1969年にリヒテンシュタイン公国の領主からアメリカ国立美術館に高額で譲渡され話題を呼んだ。1478-9年ころ、27,8歳のときヴェルロッキオの工房から完全に独立し、ある修道院からの依頼で「博士礼拝」を描く。師のもとで学んだ遠近法の効果をしめし、とりまく人々の運動や感情の表現をたくみに表している。

1482年ころフィレンツエを去ってミラノに移り、ミラノ王ロドヴィゴに迎えられる。面白いのは、自分自身の推薦状にもちろん絵画や彫刻についての技術の宣伝も忘れていないが、第一に軍事技術者として自分を売り込んでいた点である。これはロドヴィゴが軍事技術者を必要としていたことを見越してのことのようだ。回転端、クレーン利用の開削機、大砲蒸気砲など次々と新技術を提案している。
そして1498年「最後の晩餐」完成。正確な遠近法によって描かれている、使徒は3人筒4グループに分けられ、キリストが「誠に、われ汝らに告げん、汝らのうち一人我を売るものあり」と伝えた瞬間の驚きがそれぞれ個性的に表されている、光線の効果を十分に生かしているなど驚くべき技術が示されている。前後して1483年にミラノの教団から製作を依頼された「岩窟の聖母」を完成させている。
ダ・ヴィンチがミラノに来た目的の一つは、新しい鋳造技術を用いてロドヴィゴの父の聖堂騎馬像を作ることであった。しかしロドヴィゴはフランスのシャルル8世のイタリア侵入を助けるなど権謀術数家であったが、没落してしまった。その結果青銅は作られることなく、新しいパトロンを求めてミラノを去らねば成らなくなった。

1500年彼は故郷のフィレンツエに18年ぶりに帰ってきた。時に48歳。このころセルヴィ兄弟団の依頼で「聖アンナと聖母子」の製作をしたらしい。時の権力者チェーザレ・ボルジアの庇護を受け、その元で水、運河、天体、飛行理論などの研究を行っている。「アンギアリの戦い」を完成させる一方、ミケランジェロと共にパラッツオ・ベッツイオの壁画制作を依頼され、対抗心を燃やしたのもこのころである。
この後彼はルイ12世の宮廷画家に任命されたり、ローマでジュリアーノ・メデイチに使えるなどする。このころは異母弟と遺産相続のことで争う一方、絶えずパトロンを求める必要に迫られるなど必ずしも楽な時代ではなかったようだ。やがてフランソワ1世に招かれフランスに渡るも1519年アンボワーズクルー館にて死去。

最後に彼が高度ルネサンスの最高傑作といわれる「モナリザ」に着手したのは1503年ころと言われる。しかし詳細は実はほとんどわかっていない。モデルの女性はジョコンダ夫人といわれ、製作開始当時25,6歳、絵が完成したとき30前というが異論もある。この絵がどのように技術的に優れており、微笑が何を意味していうるかは原作に譲ることとしよう。

全体ダ・ヴィンチの絵は構成、光など科学的に非常に考えられている点に驚く。同時に自然や人物の多くの習作がベースにあり、技術的に高いことに驚く。主題の「モナ・リザの秘密」については突込みがいま少し不足しているようにも感じるが、ダ・ヴィンチという人を知る上での基本的な著作である、と感じた。

041119