講談社現代新書
世界史においてモンゴル帝国の出現はともすると一過性のものに見られがちだが、歴史の舞台をユーラシア全土に広げ、近代世界史の礎を作ったといっても過言ではない。この本は多くの新しい見方と共に、その歴史をなかなか面白くまとめている。著者は中央ユーラシア史、モンゴル時代史を専攻する気鋭の学者である。
資料は七代フレグ・ウルスのカンとなったガザンの「モンゴル歴史」、それを拡張させたラシード・アッデイーンの「集史」、ペルシア語の史書「ヴァッサーフ史」である。著者はイスタンブールでの「集史」との出会いから書き始めている。
先ごろ小泉首相が訪問したモンゴルは、建国800年を迎えている。テムジンが即位してチンギス・カンと号した年を建国元年とするのだ。即位後、チンギスはすぐに遊牧民の組織化と内政整理に取り組み、95個の1000戸群を作り上げた。それがすむと東の金国を屈服させた後、西遼国を簒奪、さらに今のイランあたりを支配するホラズム王国に迫った。帰国後、再び西夏をうかがう途中他界した。まさに征服に明け暮れた一生であった。
彼を継いだオゴデイ、グユク、モンケ3世代の間に、モンゴルは、カラコルムを首都とし、ハンガリーまでのユーラシア全域に領土を拡張した。またフレグはアッバース朝を滅亡させ、フレグ・カン国を作った。
1259年にモンケが他界すると、クビライが、アリク・ブケとの4年にわたる後継者戦いに勝利する。クビライは、チンギスの孫にあたり、彼は「世界の改造者」と呼ぶにふさわしい人物であった。そのころ帝国は巨大になり、西北ユーラシアのジョチ・ウルス、西アジアのフレグ・ウルス等も十分に帝国と呼べるものとなった。ほかにも多くの地域政権、在来王朝があり、モンゴルは超広域諸国家連合の趣を呈し、その上に大カンたるクビライをいただく政権が載る形になった。
クビライは、現在の北京を新しい都とし、銀をベースにした通貨制度を作り出し、ユーラシア全土にわたる物流システムを作り出した。政権最大の課題は南宋との対決であったが、1275年に滅亡させ江南に進出、中華の経済力を手に入れ、海上発展まで試みられるようになった。クビライは晩年にも東方三王家の「ナヤンの乱」などで足許をとられながらも、国家建設事業を進め、1294年80歳で長逝した。
クビライ政権の1274年に第1回日本遠征がモンゴル・高麗連合軍によって行われた。穏当なやり方で使節を派遣したが、国際情勢に疎い日本が拒否し、対南宋大侵攻作戦の一環として遠征をおこなうこととなった。しかし南宋との戦いに目一杯で、高麗軍中心の三流軍隊、結局、あの台風で失敗し帰還することとなった。1281年に第2回遠征がやはり高麗軍主体で行われたが、このときは日本側も北条時宗が中心となって、長い石築地を築くなど十分準備をしていた。元の兵の数は多いように言われているが、多くは日本移住をねらった難民に近いものであった可能性が高い。結局上陸できぬうちにまた台風にあい、失敗に終ってしまった。第3回も計画されないではなかったが、国内問題でそれどころではなくなっていたようだ。
クビライ他界後、テムルがカイドウの反乱を抑え、東西和合を成立させた。クビライが構想した国家システムは、その2代後1308年に即位したカイシャンの時代にほぼ完成した。経済と流通がイスラム系商業勢力、ウイグル商業勢力に支えられて発達し、意外なほど文書行政となった。帝国はまとまり「パクス・モンゴリカ」との様相さえ示した。
しかし1311年カイシャン没後、帝室内部の権力闘争に加え、地方王朝が次第に独立の色を濃くしていく。特に1328年の天暦の内乱以降、大カンの権威が失墜し、周囲から動かされるロボット化してゆく。相次ぐ天災に加えて、フレグ・カンなども他界し、江南の混乱で経済力をも失ってしまう。1368年に朱元?が南京で皇帝を宣言、明王朝が成立する。1388年の最後のカン、トクズ・テムルが殺され、王朝は滅亡する。
こうして東西を融合させたモンゴル帝国の後に、東では明、続いて清王朝が、西ではオスマン帝国、南では中央アジアを切り従えたチムール帝国がインドにまで南下して「ムガール王朝」、北ではロシアが浮上してくる。そして西欧は、海への視野と共にいつしか通商立国への道をたどりだし、新しい交易圏時代を迎えるのである。
最後に講談社現代新書は最近すべて一冊で終えるようにしてしまった。その結果書店に上下2冊のこの本はない。残念なことである。
060819