長崎ぶらぶら節       なかにし 礼


文芸春秋ハードカバー

長崎網場村の棒手振り魚屋の娘サダは、姉のマスなどに比べて器量が悪かった。網場芸者になるのがいやで、長唄や三味線を熱心に練習した。明治十六年七月、十歳の時、日見峠を越えて、長崎丸山の芸者置屋島田屋に届けられた。十二歳で舞子になり、名前は愛八、十七歳で芸者としてお披露目、十八歳の秋に旦那持ちとなった。二十歳を過ぎた頃からめきめき売り出し、朋輩と共に丸山五人衆ともてはやされた。客に愛され、自分でも楽しみ、芸一筋に夢中になっている間に、五十歳目前になっていた。
気風のよい芸者で、宴席で土俵入りを見せたり、地元の芸者と立ち会いを演じたり、お雪ぼうの売る花を全部買ってやったりした。古賀十二郎を知り、一目で好きになってしまった。一度に二人は好きになれぬと旦那とも分かれてしまった。
古賀は、万屋の若旦那だが学者で、そのために身代つぶしてしまった男。愛八を「長崎の古か歌ば探して歩かんかね。」と誘う。村村を渡り歩いて、古老に昔の歌を歌ってもらい、古賀が書き付け、愛八が三味線をあわせ、拍子と節を書き取る。百以上集まりもう止めようかとも思ったが、キリシタンの歌があるはずとそちらも調べる。そのころお雪は傘鉾奉納で舞うなど芸者への道を進み始めた。サダはお雪が可愛くて仕方がない。
そして唄探しも本当におしまいと思った頃、温泉町小浜で長崎ぶらぶら節にであった。死に掛けていた唄がよみがえった、愛八は本当に幸せに感じた。古賀とは結ばれることがなかったが、本当に幸せな三年間だった。そのころ古賀も「長崎市史・風俗編」で世に認められるようになった。しかしこのころお雪は肺病を病み、死の瀬戸際に有った。
晩年の愛八の活動は、すべてお雪の病気治療の金を稼ぎ出すために費やされた。西条八十に認められて東京に行きレコーデイングして入った金なども皆消えていった。愛八が電気もガスも止められた部屋でなくなった時、お雪は彼女が自分の治療費を出してくれていたのだと始めて知った。

地味ではあるが人の心を打つ作品である。遠藤周作の「女の一生」を思い浮かべながら読んだ。史実を良く調べている。ワシントン条約で土佐丸を沈めなければならなかった海軍の話しなども物語の中で生きている。作詞作曲をやっている人だけに表現が非常にうまく人の心を打つ。愛八の性格描写が生きているし、随所に見られる情景描写も素晴らしい。方言もよく研究されていて、雰囲気がでている。
この作品は渡哲也と吉永小百合で九月に映画になるという。長崎ぶらぶら節というのは実際どんな唄なのだろう、二人はどうサダと古賀を演じてみせるのだろう、と興味が尽きない。見てみたいと考えている。
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