納棺夫日記          青木 新門


文春文庫

山村美紗の<葬儀屋石原明子>シリーズを読んでいて、何か雰囲気が違うような感じがし、書店を歩き回って見つけた物だが、素晴らしい作品だ。
著者は富山市内で飲食店を経営していたが倒産、新聞の求人広告を見て冠婚葬祭会社に就職し、おもいもかけず湯灌や納棺の仕事をさせられる。しかし妻からは「穢らわしい」とセックスを拒否され、叔父には「一族の恥だ。縁を切る。」などと言われて苦しむ。しかし「死をタブー視する社会通念を云々しながら、自分自身その社会通念の延長線上にいることに気づいていなかった。社会通念を変えたければ、自分の心を変えればいいのだ。」(31p)と考え、納棺夫に徹し、死と正面から向きあうようになる。<生死一如>の考え方にたつ仏教思想に共鳴し、宮沢賢治の「永訣の朝」にみるみぞれに悲しい美しさを認める。
人の死は様々、美しい死とは一体何なのだ。三島由紀夫の観念は老年は永遠に醜く、青春は永遠に美しい。そうである故に美しい死に方は自殺しかなかった。自我の愛であって、生との存続は断ち切られている。深沢七郎「楢山節考」のおりん婆さんは楢山の山頂で迎える死が美しい死に方と思っている。その死は自我を犠牲にした愛で生とつながっている。
死者ばかりみていると、死者は静かで美しく見える。無数の蛆のうごめく老人の死体を処理したとき、蛆も生命と感得すると蛆たちが光って見えた。「がんばって」というのは生の立場からみた言い方である。私のあの叔父は「ありがとう、みなさん」を繰り返しながら死んでいった。死を覚悟したある友人の手紙も私に感動を与えた。「私は不思議な光景をみた。すべての物が光って見えるのです。」
親鸞は「教行信証」の最初に「それ真実の教えを顕わさば即ち大無量寿経是也」としてなぜ大無量寿経かというと<釈迦の顔が光っていた>からだとしている。親鸞は光りとの出会いを体験し、この書物を書いたに違いない。この光りに出会うと死への恐怖がなくなり、煩悩が消滅し、生死を超越する事ができるようになる。あらゆる物に感謝の気持ちが表れるが、これは浄土真宗で言う回向に他ならない。
生に絶対の信を置く時代になって宗教界は行き場を失っているように見える。<死>は医者が見つめ、<死体>は葬儀屋が見つめ、<死者>は愛する人が見つめ、僧侶は<死も死体も死者も>なるべく見ないようにして、お布施を教えている。その間に科学技術は大変な進歩を遂げた。今日のあらゆる分野で必要なのは現場の知ではないだろうか。宗教が生きていく人間のための物ならば、宗教そのものがいき生き生きと生きていかねばならない。生にのみ価値をおく思想を改めなければいけない。

まとめが非常に書きにくい。いろいろな死を見つめて来た著者にはもはや死は忌むべきものとは映らない。光りに出会い、煩悩をたちきり、生死を超越することが肝心だ、と解く。著者の経験と努力の結果なのだろうが、死そのものをこれだけ客観できる、と言うことは素晴らしい。ある読者の手紙に「特定の大学生と言わず、義務教育課程での子どもたちにもぜひ読ませてほしい書物」とあったそうだが、同感である。

・ <生命を救う>という絶対的な大義名分に支えられた<生>の思想が、現代医学を我が物顔にはびこらせ、過去に人間が最も大切にしていたものを、その死の瞬間においてさえ奪い去ってゆこうとする。(65p)
・ 「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)(79p)
・ 我々は、自分のたっているところを起点に思考したり言葉を発したりしているわけで、たとえば善悪を云々する場合でも、自分は善人であると思っている人と、自分を悪人であると思っている人では、そのスタンスが違うため、善悪の様相も変わってくる。特に我々が生死を云々する場合、<生>にスタンスをおいての一方的な発言であって、<死>にスタンスをおいた発言はありえない。(74p)
・ 視点の移動があって、思いやりが生まれる。(77p)
・ それがし閉眼せば賀茂河へいれて魚にあたうべし。(親鸞)(109p)
・ 百パーセント死に至る苦行でなければ<光り>に出会えないわけで、並大抵の苦行では意味がない。…・ところが現実には中途半端な修行の途上にいながら、さも覚者のような顔をして成仏の引導まで行っている。(111p)
・ 詩人たちは一様に、物への執着が無く、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋で美しい物にあこがれながら、愛欲や酒に醜くおぼれ、死を見つめている割に、異常に生に執着したりしている。(117p)
・ 科学的でない宗教は盲目である 宗教のない科学は危険である (アインシュタイン)(126p)
・ 原生物は単純な分裂によって増殖し、その過程に一切の死骸に相当する物を残さないそうである。この法が自然の摂理にかなっているのであって、高等生物の自然死は、有機体が複雑に進化し、不完全な統合しかできなくなって引き起こされる付帯現象であるという。(134p)
・ 生に絶対的な心を置いてきた今日の人々にとって、死は悪であり…・(135p)
・ 人は、自分と同じ体験をし、自分より少し前へ進んだ人がもっとも頼りとなる。(137p)
・ 宗教が戦争を引き起こす最大の原因は、教祖が真如の光りを浴びていないため欲望と自我が残っているか、教祖は真如の人であったが、教祖が世を去ってその後の教団統率者が欲望と自我に迷惑して行き先を見失うかである。(140p)
・ 悟りと言うことはいかなる場合にも平気で生きている事であった。(正岡子規)(159p)
・ しっかりした人は頭では考えない。狂った人間だけが頭で考える。白人は頭で考える。私たちインデイアンは頭で考えない。(173p)
・ リンゴを食べた人でなければリンゴの味は分からない。生や死は、現場の事実であってまさにリンゴを食べることなのである。(201p)
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