おはん             宇野 千代


新潮文庫

「よう訊いてくださりました。…」という独特の語り口で始まるこの作品は、全編ある関西の優柔不断な若旦那の告白という形を取っている。
若旦那は、紺屋の倅だったが、生まれた家は逼迫し、大名小路なる横町の借りた店で古手屋をやっている。かっておはんという女房がいたが、芸者のおかよが好きになり、とうとう離縁。おかよは、その後鍛冶屋町で女衆をおいて芸者屋をし、若旦那はいわば居候みたいな形でそこに寄宿し、店に通ってきている。
ところが、ある時おはんに出会ってしまった。その後おはんは若旦那のもとを訪ね、やけぼっくりに火がついてしまう。おかよの元には遠縁のお仙という十三の娘がやってきた。かわゆく能力があったから、惚れ込みようは大変でゆくゆく芸者にしようと張り切り始めた。
若旦那は、やがて鉄砲小路の堤の上で息子の悟に出会う。悟はおはんと分かれたとき、まだお腹のなかだったから、若旦那のことを父親だと知らない。しかし若旦那は父親の意識が強く、可愛くてたまらない。とうとうおはんに「そのうち新しい家で親子三人、一緒に住むことにしよう。おかよとは分かれる。」などと約束してしまう。
そう言いながらぐずぐず伸ばしていたが、裏のおばはんの口利きでお大師さまの横手に適当な家が見つかった。おはん親子はそこに移ったが、それでも若旦那は、おかよと分かれられなかった。しかし最期に悟に攻められて、九月の十三日におかよには何もしらせずに新居に移った。ちょうど嵐の日だった。親子三人水いらずと思ったが、悟が帰ってこない。その上優柔不断な若旦那はまたもおはんの元を飛び出した。
悟が川にはまって死んだ、と知ったのは翌日だった。葬儀の席で若旦那は、家のものに散々い打ち据えられる。おはんは若旦那の元を去っていった。

作者は、このさして長くもない物語を書くのに、十年の歳月を要したという。それだけに京言葉を彷彿とさせる若旦那のやさしい語り口と、無駄のない文章が素晴らしい。十年の間に作者の体験が作品に染み込んでいったのではないか。日本語のもつしっとりとした情感をあらためて認識した。プロットとすればそれほど複雑ではないのだが、結末近くは読者を感動させ、涙を誘う。素晴らしい、一度は呼んでみるべき作品と思った。
010307