集英社ハードカバー
1967年早春、在チェコスロバキア日本大使館二等書記官堀江亮介は、プラハ郊外で車のトラブルにあった母と娘を助けた。母はカテリーナ・シュナイダー、娘はシルビアで独裁者ウルブリヒトの支配する東独DDRの人だった。カテリーナの離婚した夫は東独特務機関の大佐だったが、彼女は反体制活動家で、ヘスを中心とする秘密警察「シタージ」に常に監視されていた。遠慮がちの交際のうちに亮介とカテリーナの間に恋らしきものがが芽生えたが、状況を考え、カテリーナは別れの手紙を書いた。
翌年、保守派のノボトニーが失脚し、ドウプチェクが第一書記となった。彼は保守派の追いおとしにとりかかる一方、報道規制と検閲を規制した報道法を改正し、検閲を撤廃した。あらゆる市民たちが堰をきったように発言し出した。さらに1948年のマサリク外務大臣の死などを通じソ連の陰謀を暴く様相さえ見せ、ソ連を刺激した。あまりに急激な改革は、かってのハンガリー動乱時の再来を懸念させた。
しかもプラハに吹き荒れた自由の嵐は隣国ポーランドを巻き込み、ゴムルカを震え上がらせた。やがてゴムルカはドウプチェクを反革命、反社会主義と断じ、DDRのウルブリヒトと共に「プラハの春」を押しつぶそうと画策するようになる。
ドレスデンで東欧・ソ連のチェコスロバキアの政治状況を検討する首脳会談が開催された。それはまさにドウプチェクつるしあげの場であった。前日ノボトニーが大統領を辞任し、保守派の敗北が決定的になったことも輪を書けた。
四月になってカテリーナをナビゲーターとする「ミレナとワインを」という国際放送が開始された。やさしく音楽と共に語り掛けるミレナの語り口は、本人は芸術と割り切るが、チェコ国民を勇気づけ、隣国国民に自由を渇望させる物だった。
亮介とカテリーナの恋は次第に本物になり、ベルリンで密会を重ねるまでになった。政治問題や「ミレナとワインを」などが話題となり、亮介の貴重な情報源でもあった。
一方で、ソ連や東欧諸国の軍事介入がささやかれ出しチェコスロバキアの人々は焦燥感と閉塞感に悩まされ始めた。唐突に文化人達を中心に民主化のために徹底的に戦うとした「二千語宣言」が発表された。
七月ドウプチェク欠席の元、ワルシャワで首脳会談が開かれ、二千語宣言を徹底的に非難し、反社会主義的行為の即刻中止を求める書簡が公表された。
DDRのシタージのヘスは放送を止めさせようとする一方、執拗にカテリーナを追い続け、ついにはチェコからの誘拐まで試みるが失敗に終わった。
七月末になってブレジネフとドウプチェクのチェルナ直接会談、プラチスラバで開かれた六カ国会談で、いったんはチェコがソ連および社会主義国との関係を悪化させないことを条件に、平和は確保されたかに見えた。しかし小さな解釈のい違い等から、もはや軍事介入は避けられない見通しとなった。
八月二十日。ソ連軍と東欧連合軍による侵入が始まった。各機関は押さえられ、街には装甲車と銃を手にした兵が闊歩し、ドウプチェク等はモスクワに連れ去られた。市民を中心とした二万人集会では多くの死者を出した。モスクワでソ連首脳とチェコ首脳の直接会談。会議は難航するが、状況を冷静に判断したスボボダ大統領を中心にようやくまとまった。グスタフ・フサークがソ連の犬となってチェコの改革にあたることになった。こうして「プラハの春」は終焉を遂げた。
しかし亮一とカテリーナの間の物語はまだ残っていた……・。
「プラハの春」をその成立から崩壊まで、リアルに圧倒的に描いているところが何と言っても魅力である。歴史を新たに見直すという点でも非常に優れている。
ただ同時に進行して行く主人公とカテリーナの恋が今一つ現実感に乏しいように見えた。恋をしながらも人間の心には打算が働く、押さえ切れない性的な欲望も働く、そういった悩みというものが良く書かれてはいるが、今一歩きれいごとで終わっているような気がして残念だった。
・ わたくしは、権力は本質的に悪である、善なる権力は存在しないと確信しています。しかも本質的に悪である権力を行使するものは人間です。神ではありません。だからこそ権力を手にするものは、不断に腐敗するのであり、絶対的権力者は絶対的に腐敗するのです。(241p)
・ 独裁者は、右であれ左であれ、必ず言論弾圧するものなのです。その社会が本当に民主主義であり、自由であるかを、測定する基準は単純明快、言論の白由が保障されているが否か。その一点に尽きるのです(254p)
・ ドゥプチエクは、言葉の民であるチェコスロバキアの人々に、言葉を回復させようとしています。真実の言葉と表現の白由を奪うことが、どれほど野蛮かつ非入間的なここであるかを、彼は知っているのです。被抑圧民族としてチエコ入、スロバキア人は、言論、そして表現の白由にことのほか敏感なのです(255p)
・ 西ベルリンは、DDRにとって、その領上の中にある屈辱の空間であった。DDR休制を拒否する人々が、西ベルリンを経由して脱出した。社全主義を擁護するという大義のもと、ウルブリヒトは、恥も外聞もなく西ベルリンを強引に「壁」で囲い込み遮断した。(303p)
・ だが、ソ連にとってチェコスロバキアは、ポーランド、DDR、ハンガリー、ブルガリアとともに、第二次世界大戦において、二千万のソ連国民の命、そしてすべてのソ連国民が流した血と涙、そして汗で闘い取った、紛れもない戦利品であった。それ以外いかなるものでもなかった。ヒトラーを打倒した功績に対する当然の報酬であった。たとえ一センチといえども譲るはずはなかった。ソ運にとって、「ブラハの春」の改革路線は、戦利品を失うきっかけになる危険があった。堤防を崩す蟻の穴だった。改革路線を容認するはずがなかった。(359p)
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