李陵・山月記      中島 敦


新潮文庫

中島敦は、明治42年生まれ、幼児より漢学の教養と広範な読書をベースに、知識人の宿命、孤独を唱えた作家で34才で没した。4つの短編は古い中国の伝説や歴史を背景に、苦しみ、もがく人間像を描いている。

山月記
朧西の李徴は、博学で才が優れていたが、自尊心がきわめて高く、下級役人で満足できず、官を辞した。山の奥に住み、人と交わりを断って詩作に耽ったが、文名は容易に上がらず、生活は日を追って苦しくなった。一時、地方官吏となったが満足できず、発狂し出奔、行き方知れずとなった。翌年、ある監察御史が嶺南の商於というところで、山中に分け入ったところ人喰い虎に姿を変えた李徴にであった。
・臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の故に、次第に世と離れ、人と遠ざかり、ますます己の内なる自尊心を飼い太らせることになった。(14p 要約)

名人伝
趙の紀昌は、天下一の弓取りになろうと志を立て、飛衛という名人の門に入った。瞬きせざること、視ることを学んだのち、射術の奥義を極めた。さらに山中に住む甘蠅老師に学び、無形の弓で鳶を落とす術などを学ぶ。しかし名人の域に達した紀昌はもはや弓さえ手に取ろうとしなくなった。彼は甘蠅師のもとを辞して40年後に、静かに煙の如くこの世を去った。その時には弓という名も、使い道も忘れていた。

弟子
魯の遊侠の徒仲由、字は子路は孔子を試そうとして、逆にその能力に感服、教えを請うて弟子となった。遠慮なく反問するため、子路ほど孔子に叱られる者はなかったが孔子に愛され、諸国を孔子と共に旅した。数々の教えを受けたが、衛の国の内乱に巻き込まれ、切り刻まれて殺された。

李陵
漢の武帝の時代、騎都尉李陵は、歩卒5000を率いて匈奴征伐に出掛けた。勇敢に戦ったが捕らえられた。しかし匈奴は彼を厚遇した。一方漢では保身主義の大臣どもが李陵を非難した。一人司馬遷が反対したが、彼は武帝に無礼な言葉を吐いた罪で、腐刑という恥ずかしい刑を受けた。しかしこのことが転機となってあの膨大な史記を完成させることとなった。李陵は、やがて自分の妻子がことごとく殺された事を知り、遂に匈奴のために戦う様になった。蘇武という男が、李陵と同様に捕らえられたが、彼は最後まで匈奴のために戦うことをよしとしなかった。やがて武帝が亡くなり、蘇武や李陵が漢に戻るように求められた。
・自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来そうとも、士たる者はそれを甘受しなければならないはずだ。(93p)