ロードス島攻防記   塩野七生

新潮社ハードカバー


エルサレムが、イスラム教徒の支配下にあった9世紀中ごろ、イタリア都市国家アマルフィの商人マクロが、西欧からの聖地巡礼に訪れる人たちのために病院を兼ねた宿泊所を建てた。やがてこの施設は、エルサレム市街で聖ヨハネを守護聖人とする騎士団として成長してゆき、ローマ法王も軍旗を与えた。第一次十字軍、続いて第二次、第三次とへるに従って次第にキリスト教徒を異教徒から守る軍事的色彩を強くして行った。
しかし彼等はパレステイナが完全にイスラム教徒の手におちた後、行き場を失った。それでも14世紀初頭、ビザンテイン帝国からロードス島を借り受けたジェノバ人海賊の勧めで、面積1500平方キロに及ばぬが気候のよいこの島に住みつき、次第に周囲の島を奪って勢力をひろげていった。しかしイスラム教徒と見れば襲い掛かるこの軍団は、彼らから見ればまさに「イスラムの喉に引っかかった骨」であった。

1480年にコンスタンテイノープルを滅ぼしたメフメト2世がこの島の攻略を試みた。10万の兵を差し向けたが、騎士の数だけならば600にすぎない力で、団長ピエールドップソンの指揮下騎士団は3ヶ月に渡った攻防戦を勝ち抜いた。ビザンテイン帝国もヴェネツイアも勝てなかったトルコの撃退に成功したと、西欧諸国も騎士団の力をみなおしたものである。しかし時代は移り、バヤゼッド、セリムとついで1520年王位についたスレイマン大帝が再びロードス制圧を決心した。考え方によっては、西に台頭してきたハプスブルグ王朝と相対するためには避けて通れぬ道でもあった。

戦端のひぶたが切られたのは1522年夏のことであった。
トルコ側は、28歳のスレイマン大帝が陣頭指揮し、本隊は10万人、300のガレー船で食料・弾薬の補給はトルコ側のマルマンリスから行われた。ほかトルコの支配下にあったシリアとエジプトから10万人に200のガレー船。こちらは騎士600、傭兵と農民が5000足らずが参戦した。
大砲による攻撃は余り大きな効果を生まなかったが、堀に坑道をうがち、城壁下に爆薬を設置・爆発させるやりかたは効果的だった。そこに、背後から抜刀したイエニチェリにせきたてられたギリシャ,シリア、エジプトの兵が殺到した。ロードス島は5ヶ月もちこたえたが 、ついに万策つき、オスマン側の提案した降伏勧告を受け入れることとなった。幸いなことに撤退だけは交渉に従って平和裏に行われた。

物語はこれにイタリア騎士館に送り込まれた若いアントニオとオルシーニ郷の同性愛的関係、城壁作り技術者メルテイネンゴの話などを織り交ぜ起伏を持たせている。しかしながらなんと言っても合戦場面の検討や描写がすばらしい。

ロードス島をおわれた騎士団はちりじりになり、流浪の生活を送るが1530年になってスペイン王カルロスの計らいでマルタ島に集結した。1557年のイスラムの攻撃にも耐えたが、1798年エジプト遠征途中のナポレオンによって一蹴された。その後再び流浪の生活を続けるが現在ではローマコンドッテイ通りに居を構え、いまだに各言語別の隊を組んで医療活動は続けているとのことである。

051113