講談社文庫
明治9年井上馨夫人は夫の欧米旅行に従ってアメリカ船アラスカ号にのって横浜を出発した。井上は自分の前途を思い、妻の武子や娘の末子に西欧文化を注入して、社交女性に仕立てるつもりだったのだ。
新政府は西洋知識の取り込みにやっきとなったが、中でも森有礼は「妻妾論」で男女平等を唱えたり、明治8年の開拓吏学校出身の広瀬常との結婚では結婚契約書を策定、新聞に発表するなどして話題をまいた。結婚式にも洋装の女性が目立った。
そんな中で、日本は旧幕時代に諸外国と締結していた屈辱的な不平等条約を改正するという難題を抱えていた。明治11年に帰国した井上は、その解決のために参議に採用された。貴賓の来朝は日本が文明国であることを世界に認識させるチャンスと考えられた。明治12年工武大学校講堂で行われたグラント将軍歓迎の大夜会は皮切りで、井上夫人を始め、日本の高官夫人達が一斉に社交界にデビューさせた。
しかし学校の講堂では設備不足であったから、早急に外人パーテイ用の建物が建てられることになったが、贋札事件などで遅れ竣工は明治16年(1883)まで待たねばならなかった。場所は現在のヤマト生命あたりで、設計はジョサイア・コンドル、財政窮乏のおりから各部持ち寄りわずか18万円であった。
女達は悪戦苦闘した。バッスルスタイルの洋服は明らかにパリ製だが、スカートを広げすぎたり、つぼめすぎたり、コルセットを具合悪くつけたり、袖の太さもいい加減、なにしろしっくり行かなかった。教え込まれたダンスもつい自動人形のようになりがち、それでもカドリールやワルツを踊った。井上夫人が指導したり、ダンス教室が開かれたりした。時にはそうした努力は外人には滑稽に映り、風刺の対象となった。
それでも19年にもなると、パーテイの数は増え、洋装も学校で教える、デパートが取り組み始めるなど盛んになった。しかし庶民の反発は強く、森有礼夫人阿常が紅毛碧眼の子を産んだだの、戸田極子が同じ様なスキャンダルで騒がれたりした。バザーや仮想パーテイも開かれたが、一方でこのやり方に疑問も呈せられるようになり、大山巌夫人捨松が去るなどして衰退の日を迎えるに至った。
不平等条約はいっこうに改正されず、不満は募る一方国粋主義への回帰が鮮明になってきた。22年、森有礼が暗殺された。23年、鹿鳴館の華族会館が借用することになり、鹿鳴館時代の幕は実質的に閉じられた。
この書はまず当時の世界情勢と男達の思惑を上手に描き出している。その上で女達の涙ぐましい努力と時には挫折が、異人の体臭を指摘するなど女性らしいきめのこまかい視点で活写されている。そして「われわれの戦中派にとっても、昭和20年の敗戦の日がこれと同じ状況であった。」「二三日後にせまったアメリカ軍の進駐に慰安設備を整えようと、どこかの力がもう動き出していたのである。」と戦争直後の日本の状況を重ねて見せているところも興味深い。
010803