ルーアンの丘       遠藤 周作


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作者は1950戦後最初の留学生としてフランスの現代カトリック文明を勉強するため、渡仏した。時に27歳。この時すでに評論家として一部には知られていたらしい。留学は1953年3月帰国するまで2年9ヶ月に及んだというが、途中で結核をわずらい、最後の6ヶ月はスイスとの国境近くのコンブルーにある国際学生療養所ですごすなどした。
その時の記録で、作者の思想の原点を知る意味で大切とおもう。なお、出だしに出てくるウッサン神父は「真昼の悪魔」でその名のまま登場している。
赤ゲットフランス旅行
6月にマルセイエーズ号で横浜をたつが、マニラやコロンボで悲惨な生活に苦しむ人々を見て「この時代の悲しみや苦悩を他の人と共に背負わねばならぬ」と認識する。当時はまた戦後間も無い頃でフィリピンで敵意のあるまなざしを体験する。
「ぼくはすべての独断を今日から捨てよう。すべてのものを新鮮なままで受け入れていこう。そして、よりよきもの、より美しき物をこの国の中で探っていこう。」と青年らしく決心してマルセイユに上陸、陸路ルーアンに渡り、ロビンヌ家に寄宿するようになる。マダム・ロビンヌは教育熱心で、ここで礼儀作法を身につけ、フランス人の考え方を学ぶ。時にはパリに抜け出すこともあったが幸せな日々、しかしある時ある青年に「ぼくは日本人がきらいです。」といわれて愕然とする。
出発当時の張り切り様、とまどい、苦労等が良く書かれている。
滞仏日記
コンブルーにある国際学生療養所での滞在など最後の病気療養時代の日記をそのまま乗せてある。勉強はよくしたようだが、なかなか発展家でもあったようだ。最後には好きになった女の子と三日間の南仏旅行を楽しんでいる。

・ むなしく死んだ学徒出陣の友達の屍が、あの薔薇色のマニラ湾に何かを嘆きつづける限り、また、コロンボの白い街で、英国の少女が無邪気に眩しい日の光の中で笑えるのに、マレー人の少女は僕にまで金を乞わねばならぬ、そうした不合理な状態が世にある限り、シェークスピアやラシーヌに取りすがっているわけには行かぬ。現代の青年の一人として、この時代の悲しみや苦悩を他の人と共に背負わねばならぬ。さらに僕がカトリック信者である以上、その不合理、不正は勇気をもってたださねばならぬ。(34−35P)
・ もう一度誓いました。ぼくはすべての独断を今日から捨てよう。すべてのものを新鮮なままで受け入れていこう。そして、よりよきもの、より美しき物をこの国の中で探っていこう。自分をたえず支えるものは、誠実であり、真実に対する勇気であることにしよう、ぼくはそう考えました。(44P)
・ ジイドの小説はやはり雰囲気を主潮とする。人間の描き方に至っては何と下手なことだ。(136P)
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(1998 没後 ただし内容は1950-1953(27-30歳))