文春文庫
徳川慶喜は京都朝廷を尊び、「代々ご謀反のお家筋である。」と言われた水戸徳川家の倣岸矯激のひと斉昭の子として生を受けた。十代にして一橋家の養子となったが、本家、紀州、尾張、御三卿(一橋、清水、田安)に元気な世継ぎのいない状況では次期将軍としての期待が込められた。そして慶喜擁立の運動は松平春嶽等に寄って薦められ、安政の大獄によって一時ストップさせられたものの、京都における長州の跋扈、押し寄せる西洋の波に押されて、幕府は病弱な将軍家茂の後見役として彼を迎え入れる事となった。
蛤御門の変の後、一時逼塞していた長州がふたたび立つに及び、討伐軍を差し向けるが失敗、小笠原長秋の助言を聞き入れ、あっさり、撤退してしまう。そして、薩摩、長州にかなわないと見るや、あっさり大政奉還し、政権を投げ出してしまう。以後は坂道を下るがごとく、鳥羽・伏見の乱、大阪城への撤退、逐電、江戸城明け渡しと続く。しかし、慶喜は徹底して、京都朝廷に恭順の意をしめし、政変後は十七万石に減らされ、引退生活を送る事になる。
「明治維新は彼の譲歩がなければ成立しなかった。」などと、後年論評するむきもあるようだが、考えてみれば情けない男だった。本の表現を借りれば胆力、野心のない男であった。私はこの書を読みながら義元死後、自分の国が徐々に崩壊してゆく過程で何も為し得なかった今川氏真のことを思い浮かべていた。そして、小説は英雄を書く事のみを好むが、実際の個人としてみるとこのようなタイプの人間が大半である事もまた認めなければならない事実のように思った。