新潮文庫
杯
大きな銀の杯を薦められた外国人の乙女が、フランス語で「小さくても自分の杯で飲みます。」と言った話。鴎外の人生に対する考え方が現れているようだ。(1910
48)
普請中
渡辺の昔知り合った外人の女が、ポーランド人とともにロシアから日本経由でアメリカに渡ろうとしている。普請中のホテルで彼女を歓待し、たんたんと傍観者のごとく二人の前途を祝す話。(1910
48)
カズイスチカ
花房医学士は最初父の代診のまねごと、学校時代は時折戻って父に「三茶の礼」と称して父の相手をし、やがて父に取って代わるようになった。つまらない日常のことにも全幅の精神を傾注している父に気づき、有道者の面目に近いものを感じ、俄に尊敬する念を感じた。花房が父と共に経験した変わった病について二、三。落架風=下顎がはずれたのである。えいやっとはめ込んだ。一枚岩=破傷風によるけいれん、クロラールを大量に飲ませて治した。 生理的腫瘍=腹腔に水がたまったか、あるいは癌かも知れない、水を取ってくれと言うことだったが、聴診器でしらべるとおめでた。(1911
49)
妄想
老人が生と死について昔考えた事を思い出す、というスタイル。ハルトマンやスチルネルにあこがれた。「世界はあるよりはないほうが良いばかりではない。出来るだけ悪く作られている。世界の出来たのは失策である。無の安さがに帰るより他はない」ショーペンハウエルの悲観論やニーチェの超人論も研究した。しかしいづれもが老人に満足を与えなかった。結果、幾ばくもなくなっている生涯の残余を、見果てぬ夢の心持ちで、死を恐れず、死にあこがれずに、翁は送っている。(1911
49)
百物語
若いとき写真好きの蔀君に誘われて百物語というのに言った。落ち目の富豪の飾磨屋が主催したものだが、雑多な人が集まり、酒と川船を楽しんだだけでおしまいになった。飾磨屋は完全な傍観者を決め込む、彼は一体何を狙っていたのだろうか。(1911
49)
興津弥五右衛門の遺書
細川忠興公が逝去された。私は公に多くの恩顧を受けているので殉死を願い出て許可されたので、明日切腹する。顛末を子孫の為に書き残しおきたく思って筆をとった。我が父景一は赤松氏が滅んだ後、豊前細川氏に仕えるようになった。私は景一の次男で十九才の時に忠興公に召された。相役横田清兵衛とともに香木を買い付けに長崎に停泊する安南船を訪ねた折り、本木を買うべしと主張し、反対する横田を切った事をお許し頂いた。その後当家一族は御子忠利様からも格別の御引き立てを賜り、寛永九年の国換えの砌に御城八代に相詰となり、島原の乱において御旗本として活躍、手傷を負ったが、治療後江戸詰となった。以上の恩顧を鑑み今回の殉死をお願い申しあげた。翌日船岡山の下に仮家を設け畳一枚の上にて弥五右衛門切腹。
殉死を自明当然のこととして、欣然と死に赴く書き方がひどく新鮮に感じられた。(1912
50)
護持院原の敵討
鴎外は自分を武士として認識し、敵討ちを日本的な美しいものと考えているように思える。興津弥五右衛門の遺書と考え方は共通している。酒井忠実上屋敷で、大金奉行山本三右衛門が夜半忍び込んできた賊によって殺された。侍が親を殺害せられた場合には、敵討ちをしなくてはならない。惣領の宇平、助っ人の九右衛門、犯人を知っている文七は、途中宇平が脱落するものの、2年近くつけ回し、ついに江戸で捕らえる。そして翌日、娘のりよも加わって、護持院原で本懐を遂げる。(1913
51)
山椒大夫
これも考え方は前2作と共通しているが、おとぎ話風で物語性が非常に強く、読者に子供を強く意識して書いたのでは無いかと思った。プロットについてはあまりにも欲知られているので省略する。(1915
53)
二人の友
豊前小倉に足掛け3年いた。そのときにF君というのが押し掛けてきて、ドイツ語を教えてくれ、しかし行くところがないからしばらく内弟子にしてくれなどというのである。やがて彼はドイツ語の教師になった。小倉を発つとき一番別れを惜しんでくれたのは安国寺さんだ。F君に恋人が出来たとき相手の両親を説得してくれたのがこの安国寺さんである。それから45年、私は突然F君の訃音に接した。(1915
53)
最後の一句
桂屋太郎兵衛というものを斬罪に処する、との高札が立てられた。すると太郎兵衛の子4人が長女いちの指図で一つにまとまり、「太郎兵衛を助けて下さい。その代わりに私たち兄弟を殺して下さい。」と申し出た。お白州にでて「身代わりをお聞き届けになると、お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでも好いか。」問われて「よろしゅうございます。」と答えた後「お上の事には間違いはございますまいから。」と言いたした。役人の顔には不意打ちにあったような驚愕の色が走った、というのである。献身の中に潜む反抗の鉾先を感じさせる一句であった。(1915
53)
高瀬舟
高瀬舟に載せられて、運ばれる喜助の話を、護送を命ぜられた同心が一緒に船に乗り込んで聞いた、というプロット。「島にゆくということは、他の人にとっては悲しいことだろうが、落ち着くことが出来るし、二百文の鳥目までもらってありがたいことだ。私の罪は病気で働けなくなった弟が、自殺をしたが死にきれない、そこで求めに応じて刃を抜いてやったところ死んでしまったというものです。」財産というものは、銭の多少には関係ないということ、安楽死させることは罪になるのか、と言う問題を提起している。(1918
56)
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