青年             森 鴎外


新潮文庫

 作家を目指して上京した小泉純一は、有名作家を訪ねてみたり、フランス語を勉強したり、あるいは医学生の大村に啓発されたりして日々をすごす。ある時有楽座で興行されているイブセンのジョン・ガブリエル・ボルクマンを観劇に行ったとき、坂井と言う美しく裕福な未亡人と隣り合わせた。夫人がフランス語関係の書籍を所有していると聞き、訪問するが、そのときに関係してしまう。
 純一は、坂井夫人を決して愛しているわけではないことを認識しながら、なかなかに忘れられない。二度目に訪問したとき「今度箱根にしばらくいくから、あなたもいらっしゃいな。」と言われると、気持ちがぐらぐら揺れる。
 そして箱根、夫人とまたも邂逅するが、今度は夫人はある画家と一緒だった。嫉妬と同時に夫人を肉の塊に過ぎない、と感じ始める。寂しい・・・そう認識しながら彼は別れを決意し、同時に今こそ何か書けそうだという気がしてくるのである。

 以上がプロットであるが、この作品は青年の悩みと心の成長を記すことに重点がおかれている。解説によれば、この作品は青年に教える教科書として書かれたようだが、構成といい、文体といい随分と計算された作品であることが分かる。行き着く先として利他的個人主義を薦めている。「我という城郭を堅く守って、一歩も仮借しないで人生のあらゆる事物を領有する。君には忠義を尽くす。しかし国民としての我は、昔何もかもごちゃごちゃにしていた時代のいわゆる臣妾ではない。親には孝行を尽くす。しかし人の子としての我は、昔子を売ることも殺すこともできた時代の奴隷ではない・・・・。」
(164p)を薦めている。
 一方で主人公は「何と思っても寂しいことは寂しい。」けれども、「大村が恩も恨みもなく別れた女の話をしたっけ。場合は違うが、己も今恩もなく怨もなく別れれば好いのだ。」と認識し、「好いわ。この寂しさの中から作品が生まれるとも限らない。」(214p)とたかをくくる。この作品は「三四郎」の影響を受けたと考えられている。美弥子と坂井夫人・・・恋に破れた結果、主人公は「三四郎」の場合、依然としてストレイシープ(迷える子羊)を認識するが、こちらは小さいながら一つの結論を得、成長したのかもしれない。(1910 48)

991201