新潮新書
著者は1960年大阪生まれの教育評論家。東京都職員、都立高校勤務などの経験がある。大変興味深かった。
終戦後後、GHQ等により、日本は従来の「日本的なもの」のせいで、狂信的な軍国主義国家になったとされ、「戦後民主教育」にはその否定こそが重要とされた。神道、武士道、日本的家族制度、教育勅語、国旗・・・・。そんな中で第一世代(1945-1970年頃)は平和と民主主義を実現すれば豊かになると考え、戦後教育を支持したが、子どもの頃の経験が親、教師、生徒が平等など考えようもなかった。ところが第二世代(1970年頃―1990年代前半)に入ると学校教育だけでなく家庭教育も「正しく」行われた結果、「民主主義」「平和」「平等」は所与のものとなった。教師が親の顔色を伺い、さらには生徒とさえ平等・対等になった。そして第三世代(1990年代後半以降)が主人公となる現在、学校は勉強するところから青少年用の保育園になった。学校教育、家庭教育,個々の価値観等、いづれにおいても「戦後教育的正しさ」と決別しなければならないのではないか。
現在の学習指導要領は「全員百点」を合言葉に実施された。全員百点を取らせなければ、次の過程に進ませない。しかこれはせいぜい小学校三、四年までである。現在の教育では中学から「満点主義から難問主義への転換」が一律に行われる。これでは成長の早い子には遅いし、逆にオチこぼれた子は完全にドロップする。学力テストや偏差値競争はほとんどすべての中学生が、自分の相対的な学力を知ることができる。これらを復活させて、個人個人にあった教育をするべきだ。
学校教育をからめた「不平等社会論」が盛んに主張されている。親の収入や財産により教育程度や雇用形態がきまり、「平等な機会」があたえられない、と言うのだ。しかそんな平等は全体主義にでもならぬ限り実現しまい。教育環境に優劣が出るのはやむを得ない。抜け出すには公立学校で努力する以外にない。そのために、公立学校のレベルが上がらなければならない。「劣等性にだけ労力をさく教師」たとえばTVの金八先生ではいけない。
立身出世主義の気があると否定された「あおげばとうとし」の二番の歌詞「身をたて 名を上げ やよ はげめよ」は重要だ。
国家も地域社会も家も共同体だ。その共同体にはいかんとも説明しがたい不条理が働く。そういった社会の中で人は価値観を相対化してゆく事が求められる。学校を通じて「平和」「自由」「民主主義」の素晴らしさを広めた結果、人々が幸せな老後が期待できるとはいえない。しかも現在の中高年は、我々以上にもっとリアルな不孝に襲われる。不登校やニートは、社会の役割を担わずあまえているにすぎず、社会のお荷物だ。
GHQは日本的なもの、平家物語もウサギと亀の話も全て否定しようとした。欧米とは異質の文明だったからだ。教育勅語は明治天皇が国民に対して「人のあり様を語りかけた言葉」で現在でも基本的には正しい。」しかし彼らに取り上げられてしまった。
現在の教育基本法は国民学校法令以上に「学校により国民を強化し社会を変革しよう」という思想に問題がある。しかも一方で国民による学校教育の民主的コントロールを認めていない。改正に教職員組合が強く反対する理由はここだ。教育基本法を廃止し、たった一条の学校教育正常化基本法とでもよぶべき一条を作ればいい。「公立学校の教育は、そこに学ぶ者の知力・体力の向上と愛国心の涵養を目的として行われなければならない」教師に職業教育などせず、教育技術者に徹してももらいたい。
最後に学力と生徒数に相関関係は薄く、三十人学級の実現は意味がない。青少年用保育園など必要ではく、競争を是とするべきだ。「人権」と言う言葉を使うな。さらに言えば「イジメのある学校」を認めよ。祭りに参加させよ。やりたいことを探させるな。デモクラシーの本質を知らしめよ。有事になればたった一つの命を国にささげる、そのため一人一票の参政権が認められた。婦人もまた銃後の守りとして必要になったゆえに、婦人参政権が認められた等々。
幼稚な理想論と決別して「平凡な子どもが、平凡な大人になり、まっとうな社会人として生きて行くための教育」をしてほしい。学校教育を取り巻く言論には、リアリズムが欠如している。虚心坦懐に現実を見すえ、あるべき方向を模索し、その方向に向かう手段を考える。このようなプロセスを経なければ改善されない、と信じる。
2007年3月31日(土)曇り