小学館文庫
千昌夫の生家は、岩手県陸前高田市竹駒町、東北本線・一ノ関駅から大船渡線に乗り換えて急行で約2時間、竹駒駅から歩いて2キロほどにある。千は昭和22年農業を営む阿部家の次男として生まれた。小規模農家で父親は出稼ぎに行かなければならなかったが、その父親も千が小学校4年の時に亡くなった。そんなだったから千は高校時代からアルバイトに精を出さざるをえなかった。
そんな彼が高校2年のとき、修学旅行で上京した際、作曲家遠藤実の門をたたいた。最初は芽が出なかったが、昭和41年に吹き込んだ「星影のワルツ」が、43年になって大ヒットし、この年だけで150万枚を売るベストセラーになった。彼はスターダムへの道を一気に駆け上った。
昭和45年、東北新幹線「仙台駅」から車で2時間ほどの山林93000平方メートル(実測では約5万坪)を購入したことが事業家・千昌夫の出発点となった。この土地は仙台市により、市街化調整区域に編入され、大もうけしたということはなかったが、担保物件としては悪くない土地であった。
昭和47年に「アベインターナショナルベンチャーズコーポレーション」を設立し、自らその社長となって、国内外の不動産の売買を開始する。一方で昭和52年には「北国の春」が大ヒット、300万枚を売り上げた。さらに松下電器のTVCMに、当時の妻、シェパードと競演し、これまた大ヒット、絶頂期を迎える。
50年だいから60年代後半にかけて、彼は、手に入れた土地建物を担保に銀行から融資を受け、さらにその資金で土地を求める、見方を変えれば借金でどんどん資産を増やし事業を拡大していった。事業を「終わりなき楽しみ」と公言してはばからなかった資産は、ピーク時には2000億とも3000億とも言われた。もちろん、事業成功の裏にはバブル紳士たちとの密接な関係があった。「大京観光」横山社長、「丸源ビル」川本社長、「佐川急便」佐川会長、「コーリン産業」小谷社長等々・・・。
しかし平成2年ごろから、高金利政策、不動産の融資規制など、政府の取ったバブル対策が一つの引き金になり、バブルははじけるにいたった。地価が下落し、利ざやが稼げなくなってきた結果、千の事業の拡大はとたんにストップし、後に残ったのは借金の山だけとなった。千は、借金を減らすため全資産の売却リストを銀行に提出するまでになるが、それでも資産は売れない。ついに平成12年「アベインターナショナルベンチャーズコーポレーション」は特別清算を申請することとなった。
「星影のワルツ」のヒット以来、ひたすら蓄財に励んできた千に残ったのは、1000億以上の借金と、歌手・千昌夫の名前だけであった。
結局、身の程を越えた投資は危険、ということだろうか。世の中に絶対ということはない、投資はそこを考えなければいけない、ということだろうか。千は別に悪いことをしたわけではないが、土地価格上昇神話の崩壊等バブル崩壊を予見できなかった。合わせて彼は、関係を持つバブル紳士たちの助言を聞いたに違いない。彼の失敗は、どんなに立派な助言も、結果の責任はすべて自分になる、と言うごく当たり前のことをも教えている。
著者はフリーのジャーナリストで1989年に「千昌夫・驚異の蓄財術」を出版している。その下敷きがあったせいか、この作品も手際よく書かれているが、1989年版が出たとき、著者が千昌夫に対し、どのような見方をしていたかもあわせて知りたいところである。
020216