中公新書
この作品は著者79歳の作品で、1981年に上梓された。
千利休の罪状の一件は、大徳寺山門上の金毛閣に、利休の雪見姿の木像を安置させたこと。
第2は茶湯道具の目利きに当たって利休が私曲(不正)をおこなったこと。
山門の利休像を真っ先に問題化させたのは石田三成より、お伽衆の木下裕慶ではなかったか。私曲について、前田玄医が恨みを持っていた。
蒲生氏郷を愛し、その反対勢力たる伊達政宗を嫌っていた。正宗は、その臣が利休の処罰を面白がって報告しているところを見れば、憎んでいた。
「利休が処罰された原因と動機は、秀吉側近の対立と反目、つまり利休支持派と利休反対派の暗闘などにある。しかしもっと広い視野から眺めると秀吉が天下平定後、日本の国内に封建的社会秩序を打ち立てるに当たって、もっともめざわりだったのは、不敵な堺の町人衆であり、天下の大名・武士・公家をその門下に集め、どの大名や武将よりも剛毅に直言し、失言など少しもおそれない・・・・千利休であった。」(118p)
58年今東光「お吟さま」(小説)・・・娘のお吟さまを秀吉に差し出すことを拒否したから。
64年野上弥生子「秀吉と利休」(小説)・・・秀吉の朝鮮出兵を「唐午陣は明智討ちのようにはいかないのでは・・・。」との発言を反利休派の石田三成が問題にした。
99年竜門冬二「小説千利休」・・・・千利休は自由都市堺出身で、茶道をして平等という独特の思想を編み出した。にじり口を通過することによってすべて人間は平等になる。この書にいう「まちびと」の思想である。これが謝ったり釈明すればできたのに、千利休にそれをさせなかった。
・ 南方録は、利休が弟子の南方宗啓に語り伝えた話として「書院、台子の茶事などは、大方(北村)道陳に学んだが、小座敷の侘び茶のことは、もっぱら宗易が工夫し、(武野)紹鴎に相談して決めた。」(8p)
・1582年(天正10年)6月本能寺の変、宗易は、今井宗久や津田宗及とともに自然と信長の茶頭ではなきなった。(19p)
・ 1585年正規親天皇に関白秀吉が御茶頭役を勤めたさい、千宗易は「利休居士」と号して茶道役を勤めた(33p)
・ 1586年大友宗滴書状に美濃の守秀長に「内々の儀は宗易、公儀のことは美濃の守」と言われたとある。(55p)
・ 山上宗二記「利休の茶風によって。昔はやった茶室の床に飾る盆石が、すっかりすたれてしまった。床には墨蹟か茶花を飾り、その他の目立つ置物を嫌うのが、利休の見識であり、これが当世の茶風となった。」「利休の好みによって、天目や青磁などの典型的な唐物茶碗が廃れ、井戸などの高麗茶碗、黒、白、黄の瀬戸焼茶碗、長次郎の今楽茶碗が良しとされた。それ以前は、景色の奇抜なのや、美しいのを賞賛したが、利休好みの当世風は、形と頃(大きさ)さえよくば数寄道具とみなされるようになった。」(129p)
・ 茶会の主宰者である亭主と、茶会に招かれる客人との、相互の心遣いが一身一体となってむすばれることを、「一座建立」と称し、これをもって茶道の道の根本条件と定めている。・・・・仏陀の恵みは万人を平等にうるおすものだから、茶道の道にも富貴貧賎の差別はない。すべて人間として平等である。(146p)
・ 1587年秀吉、千利休・津田宗及を茶頭とし北野で大茶会。
・ 1590年3月 秀吉、22万の兵で関東進撃 4月小田原城包囲
・ 4月山上宗二没。
・ 7月 北条氏降伏、秀吉は奥州に向かい戦後処理、9月京都に戻る。利休は八月にすでに戻っている。
・ 9月聚楽第で朝会、お茶頭として濃茶を点てる。10月にも茶会。
・ 閏正月22日 利休が細川忠興にあてた手紙 困惑した様子
・ 2月 処罰決定的か。利休屋敷を去り、堺へ。末に自刃。