「社会契約論」  ルソー

岩波文庫

ルソー(1712-1778)の「社会契約論」を読み終える。
ある人は有史以来、人間の精神に最も影響を与えた本として「聖書」「資本論」そしてこの「社会契約論」をあげている
一般には「民約論」でこの書は、日本には中江兆民の「民約訳解」によって伝えられ、自由民権運動の精神となった。日記をひっくり返すと、大学1年のときにこの書を読んでおり「なかなか難しい」とある。ただ記憶にはまったくない。こういう本は読者自身がある程度成長し、経験をつんでいないと無理なのかもしれない。

「人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか。わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題を解きうると信じる。」(15p)
これがこの書の命題である。自由と平等をめざす人間の意志は、鎖につながれた社会状態のもとでも決して失われることはない。この意思をルソーは「人民の一般意思」とする。「人民の意志」のみが最高の決定者であり、主権も法も権利も政府もすべてがこの「一般意思」から導き出され、それによって審判される。徹底した人民主権論であり、この立場にたって、専制君主のもとに支配される事など「一人の人間が、ただで自分の身をあたえるなど想像もつかぬ行為である。」と一蹴する。

「人民の一般意思」は、絶対的であって、例外は認めず、また他人に譲り渡したり、分割されたり、代表されたりすることもない。「一般意思の行使」は、すなわち主権だから主権もまたこうした性質を受け取り、譲ることの出来ないとする。
ただ主権の絶対性は無制限のものではなく、共同の利益による限界を持っている。自然状態とは、孤立した各人が自立的な生活を営む意味で自由と平等を得ている状態である。この自然権としての自由と平等を、最大限に確保できるような社会を作るために約束(契約)を行い、社会状態にいたる。ただし、契約は特定の上位者や元首を契約当事者とする(服務契約)ものではない。主権者たる個々人相互の間の結合契約として捕らえるべきとする。個々人が結合することによって、主権者であると同時に国家の構成員となるような契約が結ばれなければならぬと考えるのである。

ただこうして出来上がった国家の中で、個人としての義務についても厳しく述べている。歴史を振り返るとき、傭兵精度などが国家を滅ぼしてゆく例をよく見ているからであろうか。「国家がよく組織されるほど、市民の心の中では、公共の仕事が私的な仕事よりも重んぜられる。」(132p)また主権者は法によってしか行動できない。法は一般意思の正当な働きに他ならないから、人民が集会した時にだけ、主権者として行動しうるだろう。それゆえにこの集会は煩瑣に行われなければならない。これについて作者は共和政時代のローマについて実例を求めて述べている。
ルソーが理想とした国家は、権力分割の上に立つブルジョア的な立憲君主制や議会主義国家ではなく、全人民を主催者とする直接民主制、人民独裁の国家だったようだ。この観点から、それは革命ないしは人民の抵抗権を理論上認めることに繋がった。

激しい思想ゆえに、生前、この書は多くの人々の容れるところとはならなかった。しかしルソーの死後11年に起こったフランス革命は、その真価を明らかにした。「エミール」と「社会契約論」を記念して銅像をたて、遺骸を「偉人の殿堂」たるパンテオンに埋葬した。
最後に第4編は本論と少し趣を異にするが、そこにあるキリスト教に対する考え方はなかなか興味深い。その不寛容性を指摘し、国家組織にはむしろ有害であるとする。

040516