小説大逆事件         佐木 隆三


文藝春秋ハードカバー

1910年(明治43年)5月、松本警察署の刑事二人が明科製材所の職工清水市太郎を急襲し、職工長宮下太吉から預かっている物品を出させた。ブリキ製の小缶、鶏冠石粉末、塩素酸カリ粉末、以上を調合した物などである。
宮下は、社会主義のいわゆる硬派に属し、当局がマークしていたところ、幸徳秋水、その事実上の妻菅野スガ、新村忠雄等との往来が盛んであった。前年10月、新村の兄のあっせんで薬研を借り受け、鶏冠石粉末、塩素酸カリ粉末より、爆裂弾を製作、山中において実験したことが明らかになった。さらに清水の証言で宮下が「ブリキ缶に火薬をいれて爆裂弾を作る。君のような頭ではわかるまいが天皇陛下の事を神様だと思っているものが多いから、そんな迷信を醒ますために、11月3日の観兵式のときにでも、陛下になげつけるつもりだ。」と語ったことが明らかになった。
幸徳秋水は、1971年(明治4年)高知県生まれで中学校時代より自由民権運動に共鳴、林有造、中江兆民等に師事した後、1998年に万朝報に入社、次第に社会主義思想を身につけた。日露戦争に反対し、同社を退社、平民新聞を創刊したが、筆禍で入獄した。1905年出獄後渡米、クロポトキンやロシア革命の影響でしだいに無政府主義思想をいだいた。1907年社会党第二回大会で議会主義を批判し、直接行動論を主張した。このような前歴であったから当局は徹底的にマークしていた。
当初、爆発物取締罰則違反で起訴することが考えられていた。しかし当時の第二次桂太郎内閣の意を受け、司法省刑事局長平沼騏一郎は「一人の無政府主義者もなきことを、世界に誇るにいたるまで、あくまで撲滅を期する方針」でのぞむと宣言した。
結局長野地裁は宮下、新村忠雄、新村善兵衛、管野スガ、新田融、幸徳秋水、古河力作の七名を、刑法第七十三条<皇室に対する罪>「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子または皇太孫に対し危害を加え、または加えんとしたるものは死刑に処す」に該当する犯罪として認め、一回結審の大審院に送致した。この段階で主犯を幸徳秋水と断定した訳である。
その上当局は無政府主義者の撲滅をねらって、関係者を次々に逮捕していった。和歌山新宮町から爆薬を提供した開業医大石誠之助や成石平四郎他が逮捕された。大石は平民新聞などに当局を揶揄する投稿をしていた。新村忠雄の供述から岡山県の森近運平が逮捕された。彼は小作人救済に熱心であった。東京都の奥宮健之や坂本清馬が逮捕された。奥宮は爆裂弾の調合比率を教えた。彼は自由党員で、警察官を殺害したことがある。坂本は社会革命運動に熱心だった。幸徳秋水宅に出入りしていた松尾卯一太等熊本の4人が逮捕された等々。
結局実行行為としては、宮下が爆裂弾を一度試験爆発させただけの事件だったが、何と26人が起訴された。しかも平沼の論告では、七十三条をもって処断すべきで、全員が共同正犯、死刑に処するを相当する、というものだった。1911年(明治44年)1月、判決が言い渡されたが24名が死刑、政府が臨時閣議を開き恩赦を検討したものの、それでも12名が死刑と決まった。あまりの苛烈さに政府自身が各国の大使、公使に対して「裁判手続きの説明書」を配ったほどである。そしてすぐに死刑執行!

史料を丹念に調べて書いていることがよく分かる。ほんのわずかなきっかけを捕まえて、不穏分子をこの際一気に葬ってしまおうという当局の考えがよく分かる。日露戦争のあとに高まった藩・軍閥批判で窮地に立たされた桂太郎内閣が、元老山県有朋の指示に従い、反政府勢力に弾圧を与えた事件ともいえるのだそうだ。恐ろしい時代だったものである。作者はこの事件をオウム事件とどこか似ていると感じて書き始めたのだそうだ。しかし作者が言うようにオウムの犯罪は単なる破廉恥罪でしかないが、この事件の冤罪者たちは人間の自由を求めて戦っていたのである。
010228