出家とその弟子        倉田 百三


角川文庫

 親鸞とその弟子唯円に関する戯曲で非常に良くできている。浄土真宗が考える仏様の考え方がよく示されており、それはまたキリスト教とも通ずるところがあると思った。以下にあらすじとそこで私が感じた事を記述する。
 第一幕:雪の夜、お兼と病弱の子松若を抱える一徹な浪人左衛門は、親鸞と二人の弟子の宿泊を断る。しかし、夢を見て考えなおし、明け方に三人を迎え入れ、許しを乞う。説教話を元にしたとの事だが、よくできてはいるものの一寸通俗的な感じがした。
 第二幕:15年後、京都で法然忌が行われ、ごった返していた。松若は唯円と名乗り、親鸞に可愛がられていた。偽善の大罪や恋のことが問題になった後、親鸞は往生の要義を聞きに来た3人に、人間は本来罪深いものと認識し、救われるために「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と説く。他力本願思想やどんな悪人も救われると言う考えはキリスト教にも相通ずるものと思った。
 第三幕:唯円は遊女と遊蕩にふける親鸞の勘当された子善鸞を尋ね、なんとか親鸞に合わせようとするが失敗。唯円、親鸞、善鸞、それぞれの立場と気持ちがよく分かる劇である。特に満たされぬ唯円の苦しみが寂しい。
 第四幕:唯円と遊女かえでのあまい恋。善鸞と別れて寂しい浅香とせっかんされてもなお恋の喜びと望みに夢中のかえでが対照的に描かれる。
 第五幕:唯円に対し他の僧が弾劾するが唯円は聞かない。親鸞のもとに問題が持ち込まれるが、親鸞は他僧にゆるすことをもとめ、唯円には恋と罪は絡まったものと教え、何事も慈悲深い仏様にまかせて奉れと説く。この親鸞の解決方法にはびっくりした。そして親鸞の基本的な考え方が一番はっきりあらわれているところと思った。
 第六幕:親鸞の入滅で、唯円はすでにかえでを妻とし、二人の娘までもうけていた。善鸞は最後に駆けつけるがそれでも仏様を信じることが出来ない。「おまえは仏様を信じられるか。」とせまられ、善鸞が「決められません、わかりません。」と答え、親鸞が「それでよいのじゃ、みんな助かっているのじゃ。」という所は考えさせる。

・左衛門=わしの優しいのは性格の弱さだ。わしはそれに打ち勝たねばならない。ひどいことにも耐える強い心にならねばならない。(37p)
・親鸞=おまえの寂しさは対象によっていやされる寂しさだが、私の寂しさはもう何者でもいやされない寂しさだ。(85p)
・親鸞=恋は罪に絡まったものだ。この世では罪を作らずに恋をすることは出来ないのだ。・・・いけなくても誰も一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が目の前に開けるのだ。(86p)
・唯円=およそ悪の中でも偽善ほど悪いものはないのですね。あなたはいつか偽善者は人殺しよりもほとけに遠いとおっしゃいましたね。(88p)
・親鸞=およそ心理は単純なものです。救いの手続きとして念仏ほど簡単なものはありませぬ。ただの六字だでな。だがうちからその心持ちに分け入れば、限りもなく複雑なものです。(100p)
・唯円=苦しい目にあったとき、その罪が自分に見いだされないときは不合理な、恨めしい気がするものだ。そのときにその恨みを仏様に向けたくなるものだ。そこをこらえよ。無理はないけれどじっと忍耐せよ。・・・・とおっしゃいました。(119p)
・親鸞=若いときには若い心で生きて行くより無いのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。(129p)
・親鸞=裁かずに許さねばいけないのだ。ちょうどおまえが仏様に許していただいているようにな。(203p)
・親鸞=仏縁というのは不思議なものだ。その遊女のためにも考えてやらねばならない。唯円と遊女との運命のために祈ってやらなければならない。(205p)
・親鸞=願いと定めとを内面的につなぐものは祈りだよ。(209P)
・親鸞=甲を愛しているから、乙を愛されないと言うのは真の愛ではない。(211P)

・親鸞=愛は相手の運命を興味とする。恋は相手の運命を幸せにするとは限らない。(212p)
・親鸞=人間の心ほど成心(偏見)を去ってすなおになりにくいものはない。(238p)

・阿部次郎=「出家とその弟子」の世界を貫く心持ちは、性を愛する心、恋を思う心、死を恐るる心を抱きしめながら、しかも人生の限りなき寂しさを感ずる心である。(256p)
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