人物文庫
渋沢栄一は、私の勤めている会社(東京ガス)の創始者である。もうすぐ定年をむかえ、会社を去るが、そういう時になって、創始者がどういう人であるか見返してみよう、という気になり、この本を読む気になった。
渋沢栄一は、1840年武蔵国血洗島(現埼玉県深谷市)の豪農の家に生れた。従兄弟の尾高惇忠の影響を受け尊皇攘夷論者であった。しかしふとした縁で一橋慶喜の臣平岡円四郎と出会い、慶喜に仕えるようになり、その開国思想に次第に影響されて行く。このころ武田耕雲斎ひきいる水戸天狗党が蜂起し、慶喜を擁立しようとした。しかし彼の透徹した目はその運動が時代の流れに有っていないことを見抜いていた。蜂起は失敗に終わった。そんな中平岡円四郎が暗殺される。
慶喜のもとで次第に力をつけた渋沢は、慶喜が朝廷から拝命した禁裏守衛総督として機能できるよう、故郷に戻るなどして志士を集め、その力を見せつける。さらに強い兵を育てる為には富を増やさなければいけない、の考えのもとに一橋家の領地でとれる米、白木綿、硝石等を有効に使って商売の幅を広げる。
幕末から明治、弱体化する幕府をみて、渋沢が考えたシナリオは、大政を奉還して国政を大名方の協議によって行い、その長に慶喜が就任する事であった。しかし1867年、渋沢は水戸の徳川昭武を団長とする万国博覧会使節団としてパリに赴いた。その間に維新がおこり、薩摩西郷隆盛の術作により、慶喜は逆賊の汚名を着せられてしまった。帰国後、水戸へ来るよう要請されたが、慶喜のいる静岡に赴き雌伏の時代を迎える。
これらの経験から「道徳と経済の一致」(論語とソロバンの一致)を理想と考えるようになった。同時代に生きた横井小楠の「日本は有道の國たれ。」の思想と相通ずるものである。静岡で農商の道を歩むつもりで、政府から貸し付けられた金を元に静岡商法会所を作った。その能力に新政府の大隈重信が注目した。
結局渋沢は大蔵省に出ることになった。そして廃藩置県を行って、郡県制度を導入する傍ら、公債証書を発行し大名家が所有していた藩札や借金を引き受けた。「政府予算における「入るをはかって出づるを制する」という原則の徹底」、「国立銀行の創設」、「貨幣制度における兌換制度の採用」を執拗に主張した。しかし上司井上の考えに従い、台湾征伐に金がない、との理由で反対し、ついには官僚を辞任してしまった。
このとき渋沢栄一33歳。渋沢は以後実業家としてのい道をまっしぐらに進む。関与した会社の数は五百あまりという。萬屋主義と自分を称し、合本主義、組織主義、商法会議所主義を徹底的に主張した。三菱岩崎弥太郎の個人主義と相対峙するものであった。
<参考>
渋沢栄一伝記に関連し、草創期における東京ガスの歴史を「東京ガス百年史」等をもとにまとめたので掲載する。
1 ガスの歴史
中国では3000年も昔に製塩用に天然ガスを使ったことが知られている。輸送には竹製の管を使った。またソ連のバクーにあるゾロアスター教寺院では、2500年のながきに渡って、天然ガスの炎が礼拝と信者の火葬用に使われた。このほか、ヨーロッパの民間伝承、宗教説話の中にも「燃える泉」や「永遠の灯」などと言う名でガスについての記述がある。
日本でも天然ガスの存在自体は古くから知られていた。寺島良安の和漢三才図会、橘南谿の「東遊記」には越後の陰火として、鈴木牧之の「北越雪譜」には風くそうずとして紹介されている。
石炭を乾溜(蒸し焼きにすること)すると、水素やメタンを主成分とする石炭ガスとコークスがえられる。石炭ガスの最初の発見者はベルギーの化学者ジャン・ヘルモントとされている。ヘルモントは1609年ころに石炭を乾溜して可燃性ガスをうることに成功した。17から18世紀にかけて、ドイツのベッケル、イギリスのボイル、クレイトン等によって石炭、泥炭、木材などから可燃性ガスを得る実験が続けられた。
こうした先駆者の後をうけて、1792年、「ガス灯の父」と呼ばれるスコットランドのウイリアム・ムルドックが、鉄製のレトルトで石炭や泥炭を乾留して得たガスを金属パイプでつなぎ、点火して室内の照明にすることに成功した。1797年にはマンチェスターの警察長官宅の戸外にガス灯を設置している。
1812年、世界最初のガス会社、ロンドン・アンド・ウエストミンスター・ガスライト・アンド・コーク会社が設立され、導管には木管が使われた。翌年12月、ウエストミンスター橋に取り付けられたガス灯は、橋を煌煌と照らし出したと言う。3年後の1815年パリ、翌年にはアメリカ最初のガス会社ボルチモア・ガスライト社が設立された。その後もニューヨーク、ベルリンなどが続いた。
日本では1830-40ころ、南部藩医島立甫が、江戸亀戸の自宅でガスを乾留し、竹の管を利用してガス点火を行い巷の話題を集めた。1855年には、水戸藩の那珂湊反射炉で「油ぬき石炭(コークス)」を使用してガスランプを点灯した。さらに1857年には島津藩でも島津斉彬の命令で鹿児島の磯の別邸にガス灯が点った。万延元年(1860)日米修好条約批准書交換のため渡米した遣米使節団一行は、ボルチモアでガス製造工場などを見学している。また1867年の徳川昭武団長のパリ万国博遣欧使節団には渋沢栄一が随行し、上海でガス灯を見、パリでは劇場のガス照明をみて感激している。
2 開国から東京ガス設立まで
開国から維新にかけて開港地では市街地ガス灯建設の要求が出てきた。維新前に横浜駐在米国領事スタール、遣米使節団一員小栗忠順などがガス灯建設を画策している。維新後は米国人ヴァン・リード、英国人シュミット、ドイツシュルツエ・ライス商会が、日本からは坂戸小八郎、横浜太田町の医師某などがガス灯建設許可を神奈川県知事に求めた。結局明治3年横浜の豪商高島嘉右衛門が横浜瓦斯会社として免許状を取得した。
高島はガス灯建設者として、当時上海フランス租界の瓦斯商会頭取であったアンリ・プレグランを招いた。その指導の下で、海外に機器を注文するなどして、明治5年、高島邸内で製造されたガスを利用して、大江橋から馬車道、本町通りの街頭に、わが国最初のガス灯十数灯の灯が点った。7年横浜の高島邸を明治天皇が訪ねて、ガス灯について御下問があったとか、住吉町に湊座が開場し、内外の照明にガス灯が用いられるなどして評判になった。横浜瓦斯会社は明治8年、第一大区町会所の手に移り、公有の「瓦斯局」となった。さらに明治25年、横浜市営となり市域の拡大に応じてガス供給の拡充に努めた。
東京のガス灯は、まず明治元年ころ江戸以来の遊興街、新吉原への建設が計画されたらしい。高島の依頼に基づき、プレグランが、欧州で江戸町会所の共有金を用いてガス灯器材を購入してきた。明治6年、高島は東京府知事に「瓦斯灯建設願」を提出した。
これを受けて東京会議所もようやく本気で取り組む姿勢を示した。新吉原案を放棄し、煉瓦街計画などにより、新首都の表通りになり始めた銀座を最初のガス灯建設地とする案を作成し、東京府知事に提出した。工場は東京府から借りた芝浜崎町の11300m2(現在の東京ガス本社ビル所在地)に建設された。明治7年金杉橋から芝、銀座を経て京橋まで85本のガス灯が東京ではじめて点灯された。
明治9年東京会議所は、その業務活動を中止し、ガス事業は道路補修、商法講習所などの事業と共に東京府に移管された。当時ガス灯によるガス消費量は売り上げの六割をしめていた。その後、工部大学校、久松屋、新富座などガス需要は伸びつづけ、16年には鹿鳴館の庭園を照らすこととなった。しかし明治15年になって電気灯が紹介されガス灯の将来に陰をさした。エジソンの発明(1878年)後わずか4年のことである。
東京府瓦斯局の経営が、依然として累積赤字を抱えてはいたものの、一応軌道に乗ったころと前後して、民間に移管すべしとの議論が高まった。明治14年に、東京府通常会議で「瓦斯局売却処分」が決議されたが、渋沢栄一瓦斯局長は引き伸ばした。しかし18年、ついに瓦斯局払い下げ広告。渋沢栄一自身と同局副長藤本精一が中心となって、54名で払受け同盟を結成、これを受けてしまった。会社創立の要綱が決定され、東京瓦斯会社の創立となった。資本金27万円、需要家343戸、街灯数400本、従業員61名、社長には渋沢栄一が就任した。
渋沢栄一は1840年武蔵国(現埼玉県)血洗島の豪農の家に出生。後に江戸に出て一橋家に仕え、一橋慶喜が将軍職を継ぐと共に幕府役人となった。維新後、静岡に移住していたが、明治2年新政府に呼び出され大蔵省に出仕、紙幣頭、租税正等を歴任、井上馨と共に同省の中枢として省務をきりまわした。明治6年、上司の井上が辞職したのに殉じて下野、第一国立銀行の総監役に就任した。明治7年、東京会議所会頭に就任、これがガス事業にかかわる契機となった。その後彼は第一銀行を本拠として百余の企業に関係している。
3 東京ガス時代
ガス灯事業は、明治30年代、40年代に全盛期を迎えたが、ゆっくりと明治17年に開業した東京電燈会社によって、燈火源の座を奪われていった。ガス灯が比較的長い座を保ち得たのは、一は当時の電燈の低品質、二はガス会社の料金値下げを含む企業努力、第三はガスマントルの採用である。マントルは1886年カール・ウエルスバッハが発明したガス燈用の発光装置で、綿糸・ラミー糸または人絹糸を編んだ網袋を母体とし、これに発光材(トリウム及びセリウム)を吸収させ乾燥する。この網を焼くと繊維質は燃え去り、鉱物室の発光材が網状になったまま固まって形を保つので、これを火口にかぶせると言うものであった。
ガス燈が頑張っている時代に新分野へ進出が試みられた。その一つがガス機関で、蒸気機関に代わって動力に使用するために、明治22年ころ試験的に導入されたのが最初である。明治30年ころ、欧米ガス調査の結果から、燃料用ガスこそが今後の主流事業になって行くと判断し、一般家庭への炊事用ガスの普及拡大を今後の方針として決定した。
明治26年商法改正に伴い、商号を東京瓦斯株式会社と改めた。明治29年に本社を神田に移転し、31年に芝浜崎町、橋場、に続いて深川区猿江町に第三の工場を建設した。そのために、毎年増資を繰り返し、明治37年には資本金を840万円とした。また徐々にガス器具が発達し、次々に紹介されるようになった。
明治33年ころより、副産物の製品化、販売に力を注ぎ始めた。明治34年にコールタールの蒸留、硫酸アンモニアの製造、軽油、クレオソート油、ナフタリン、ピッチなどを精製して賞品とした。コークスは水性ガス原料として使用すると共に、石炭、薪炭の代用として一般家庭や営業用に売り出した。
その後大森・砂村両製造所、九出張所の開設などと共に明治43年に北海道夕張郡清水沢炭山、新夕張炭山を獲得するなど原料面でも充実させてきている。
明治も末になって、報奨契約実施を狙う東京市の行政方針の変化と、ガス引用希望者の変化の間隙をぬって、新たな瓦斯事業会社が名乗りをあげた。千代田瓦斯(株)である。しかし激しい需要家争奪戦が繰り広げられたあと、44年両者合併の前提として東京市と報奨契約が成立した。翌年、東京瓦斯が千代田瓦斯を合併した。45年に帝国瓦斯協会が成立し、同年明治天皇崩御、大葬前後三日間、二重橋から馬場先門までガスの篝火がたかれ、青山御葬場には燎火が点された。
大正期に入って、明治40年代からの不況が世界を多い、日露戦争後の好況が去り、わが国の経済も国際収支の悪化など深刻な事態に陥った。需要も燃料用需要は増加したが、ガス機関用、燈火用ともに減少をはじめた。千代田瓦斯との合併により従業員数は膨れ上がり、導管や供給施設の無駄も少なくなかった。第一次世界大戦景気で副産物の需要が伸びたものの、生産力の減退などで需要も減退した。そして関東大震災。やっと大正十三年に大森製造所をのぞいて復旧に成功した。
参考文献
・日本瓦斯協会史
・東京ガスの100年
・解説都市ガス ダイヤモンド社 日本瓦斯協会編著
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