新潮文庫
戦時下の弾圧の元で信仰につまづき、キリスト教を捨てようとさえした小説家の<私>は、何十年かたって、本当のイエスの姿を求めてイスラエルを訪れる。そしてあの頃、一緒で今は神父をしている戸田にイエスの足跡を案内してもらう。
作品は<私>イスラエル訪問記と戸田が語るイエスの生誕、巡礼、捕縛、磔、昇天までの過程を交互に描くという手法を取っている。
その夏ガラリア湖畔では疫病が蔓延した。もうずっと前から、自分たちの惨めさを救う人間が南からいつかやってくると聞かされてきた。アンドレアはイエスを探し出し、息子の病気を直してくれと頼むが、心配してくれるだけで実際は何もできなかった。
イエスは大工の息子として生れたが、家を捨ててクムラン教団を訪れて、その一派である予言者ヨハネの弟子に混じった。しかしいつのまにか姿を消し、故郷のナザレに戻った。そして癩者や熱病患者を看取ったり、死に掛けた老人の手を握り見届けたりする行為を始めた。やがて人々が彼の後をついて歩くようになったが、奇跡も行えず、メシヤでもないと分かると皆離れていった。
一人になったイエスは、やがてエルサレムの汚物を焼くゲヘナの谷に住み着くようになった。そのころユダヤ人の間に、バラバという男を釈放せよ、との声が上がっていた。知事のピラト等は過ぎ越しの日に一人政治犯を釈放できるというしきたりを利用し、この日にバラバを釈放し、代わりにイエスを処刑して、民衆をなだめようと考える。
ついにイエスを捕らえ、十字架を負わせてゴルゴダの丘を登ってゆく…。
<私>は、イエスの足跡と同時にあのころ寄宿舎にいたねずみと呼ばれた男のその後を尋ねる。彼はポーランド系ユダヤ人であったため、本国に送り返され、やがてゲルゼン収容所に入れられたという。生き残ったキブツのユダヤ人の話では「ねずみはずるがしこく、うまく立ち回って医務室に潜り込んだ。マデイ神父等が囚人をかばって死んでいった。しかしねずみは弱った男がその仕事を回して暮れとたのんでも、死にそうな男がパンをせがんでもそっぽをむいて答えようとしなかった。「そうしなければおれが死ぬ。」というのが彼の論理だった。しかしやがてねずみ自身が医務室をやめさせられ、ガス室に送られる日が来た。小便をい垂れ流しながら引かれて行くねずみの横にもう一人別の男がいるように見えた。」
イエスは預言者のふれこみだったが、病人を前にして奇跡など起こせなかった。その結果人々から追われ、あざけられた。しかしその行為の根本には愛があった、瀕死の病人を見取ることが大切と考えた。当然それは当時の権威と対立し、やがて処刑されることになった。何十年かたってキリスト教徒はイエスの行為に多くのデコレーションを施し、新教義の元になる聖書を作り、キリスト教の基を築いた。ただし、どうして彼らがこの時になってイエスを見直そうと考えたのかは分からない。
ねずみのような人間、善意がないとは言わないけれど、弱く常に自分優先で状況に負けてしまう人間、しかし作者はこういった人間が当たり前の人間だと考える。「沈黙」にキチジローという宣教師崩れが出てくる。彼はロドリゴ等宣教師たちを何とか助けようとする。しかし土壇場になると彼らを裏切り密告する。そして「仕方が無い、自分は弱い人間だ。」と自己弁明する。ねずみはキチジローと同じモデルである。それはイエスを裏切ったユダをさしているように思える。
ところでこのユダをイエスは許しただろうか、という問題が残る。作者はねずみの横にイエスらしき人物が見えた、と記し、イエスの思想の根本は愛だ、許されないわけが無い、と説いているように見えた。
・ ナザレの家庭生活で駄目になり、ヨハネ教団からも脱落する。彼が満たされなかったのは一体なぜだろう。(116P)
・ 彼は荒野の信仰と律法が創り出した神のイメージに耐えられなかったんだ。彼は神とは何かを求めてここに来たんだが、怒ったり罰する神しか与えられなかったんだろう。(128P)
・ 大工の言い分によると、神はエルサレムの都の誇りとするダビデの神殿や、おごそかな律法など一つも必要とされておらぬ、神が心の底から欲しいのは人間であって、黄金で建てられた神殿ではない。神はそんなものより娼婦の一滴の泪を、ラビの言葉よりも赤ん坊の笑いの方を、はるかに求めておられるのだとさえ言ったそうだ。(147P)
・ 今の聖書学者は自分の足を食う章魚に似ているって。聖書を食って聖書の本質を見失っているって(239P)
・ あの頃荒野にいたあまたの強い予言者たちは、それぞれ信仰の対象になったはずだ。だが彼らは一人としてそうならなかった。…ただ現実に無力で何も出来ず、皆から見捨てられたイエスだけが弟子たちの信仰の対象になった…・いくら勉強してもこの謎だけは解けん。(244P)
・ 同伴者イエスっていうのは、わたくしは「沈黙」以来、最終的な決め手になるもんだっていう感じがしたんです。つまりあなたがさっき母親とおっしゃったけど、母親ってのは同伴者ですからね。(354P井上洋二解説)
・ 「母」なるものから「同伴者イエス」にいたるためには、氏にとってイエスの生涯をつらぬく<愛>の発見がなお必要であった。そしてこの<愛>の発見の過程こそが、まさに遠藤氏自身の分身とも言える「死海のほとり」の主人公<私>のイスラエル巡礼の旅に他ならないのである。(354P井上洋二解説)
000620
(1973 50歳)