史記 1 司馬遷

ちくま学芸文庫 小竹文夫、小竹武夫訳

著者司馬遷は、紀元前145年から90年くらいまでの人。匈奴討伐に向かいながら、降伏した友人の李陵をかばって、武帝(紀元前141−87年まで在位)の怒りを買い、宮刑(性器を切り取る刑)を受けたが、その中からこの書を書き上げた。全部で8巻あり、第一巻は本紀で、五帝本紀第一から考武本紀第十二まで、中国建国からの歴史を時系列的に記述している。

自分自身の理解を増すために著書およびWikipedia等を参考に自分なりにまとめてみる。

かって中国は、神農氏が治めていたが、世の中が乱れたので神霊であった黄帝がたち天下を治めるようになった。その後二代経て、帝堯、帝舜がたった。堯・舜伝説は春秋時代に作られたものだが、起源となった人物がいたかどうかは不明である。
舜に推挙され、治水事業に専心し、功績のあった禹が、紀元前2070年頃夏王朝を開いた。禹の死後、その子の啓、ついで太康が次いだ。最初の世襲王朝だが、この王朝の存在を疑う説もある。4代目の孔甲は性格が淫乱で、自分を鬼神に擬することを好み、人心が次第に夏王朝から離れていった。桀王も人徳がなかったので、ついに成湯が反乱を起こした。
殷(商とも言われる)の始祖は契(せつ)といわれる。代々夏王朝に仕えていたが、13代目の成湯が夏に変わって新しい王朝を開いた。この王朝は、紀元前17世紀から紀元前1046年頃まで続いたと考えられる。盗掘された甲骨片が契機となって、河南省安陽市郊外に殷墟が発見されており、考古学上確認された中国最古の王朝。高宗以降おおむね暗愚な王が続き、最後の紂王は妲己という美女におぼれ、暴政を行った。

そのため周王朝を開いた武王に誅されあっけなく滅びた。武王はすぐに崩御したが、武王の子、成王の時代に三監の乱を制し、権力を確立した。12代幽王の時代に乱れ、紀元前771年東西に分裂、本家である東が破れ、幽王とその太子伯服が死に、分家の携王派が勝利。携王は鎬京で即位するが、晋の文候に殺され、その後は政治の舞台は洛邑に移る。これを周の東遷といい、これ以前を西周、以後を東周と呼ぶが実際には下克上の時代に入った。
秦によって統一されるまでを、春秋戦国時代、さらに紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三つの国に別れる前を春秋時代、それ以降を戦国時代とわけることが多い。春秋時代は、諸侯が周王朝に変わり力をつけていった時代、諸侯は周王朝を助けるという名目で、天下に覇を唱えようとする。戦国時代は、弱肉強食の時代、春秋時代に100以上あった国は10数国になり、なかでも戦国の七雄(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙)が中心になって天下を争った。他にも宋や中山も王を名乗り、衰えたりといえども衛、魯などの国々も存続した。周は256年に滅亡。

伝説によれば、秦は、殷の紂王の臣悪来の末裔をされるが、九代穆公のときに勢力を伸ばした。紀元247年に即位した政は、223年に最大の敵、楚を滅亡させ中国を統一、初めての皇帝ということで始皇帝と称し、首都を陝西省渭水の北、咸陽においた。度量衡・文字の統一、郡県制の実施などの改革を行った。万里の長城を建設するなどしたが、過酷な労働が反乱の芽を育てた。始皇帝死後、宦官の趙高が権力を握り、暴政を敷いたが、陳勝・呉広の乱が勃発、全国が騒乱状態となる。章邯が陳勝、続いて楚の武将として頭角をあらわした項梁軍を撃破するが、その息子項羽に破れ、咸陽は廃墟と化し、206年に滅亡する。

項羽は、一時彭城に都し、西楚の覇王(206-202)と号した。しかし同じように陳勝・呉広の乱を契機に反乱の狼煙を上げた劉邦と天下を争った。当初は圧倒的に有利であったが、人心を得られずに最後には「垓下の戦い」に敗れた。
劉邦は、侠客の出に過ぎなかったが、項羽を下して、202年群臣の勧めを受けてついに皇帝に即位する。漢朝開祖の高祖誕生である。高祖は、韓信等の反乱を押さえ込み、自らの親族を諸侯王につけ「劉氏にあらざれば王たらず」という体制を確立した。咸陽南岸の離宮を基盤として新首都を築き「長安」と名づけた。
紀元前195年に高祖が崩御すると恵帝があとを継ぐ。しかし性格が脆弱で、生母で高祖の皇后であった呂后が実権を握る。恵帝が若死すると、高祖の子達を粛清、自らの親族を要職につけ、呂氏体制を確立しようとするが、紀元前180年に他界する。高祖の遺臣たちが中心となり呂氏一族を殺害、彼らの勢力を宮廷から一掃した。
この後、文帝、景帝と立つ。文景の治と呼ばれる期間で、紀元前180-141年。漢末期の戦乱によって社会経済は衰退していたので、民力の休養と賦役の軽減をもたらす数々の策を実施した。
第12巻考武本紀には武帝のことが書かれているが、後人が付け加えたものと見られている。

090427