史記 4 司馬遷

ちくま学芸文庫 小竹文夫、小竹武夫訳

魏世家 紀元前453年―紀元前225年。山西省、河南省に東西に広い領土を有する。晋の定めた六卿のひとつであったが、紀元前453年に魏駒が、韓、趙とともに智を倒し晋の領土を三分文して独立。紀元前424年文侯が周辺諸国を打ち、後を継いだ武侯も活躍、戦国七勇のなかでも最強の国となる。恵王の治世に斉、秦に破れ、黄河以西を失い、首都を安邑から東方の大梁(開封)に遷都、これ以降は国名も梁と呼ばれるようになる。紀元前225年に秦に滅ぼされるが、秦末期に魏咎が一時的に復活する。
韓世家 紀元前453年―紀元前230年。河南賞北部の一部、山西省南部の一部、陝西省東部の一部を領有。晋の定めた六卿の一つだったが、紀元前573年に韓厥が正卿中軍の将となって力を持ち始める。紀元前453年に韓虎が、趙、魏とともに、知氏を滅ぼし、晋の地を三分して独立した。戦国七勇の仲ではもっとも弱く、申不害(?-紀元前337年)のころ安定するものの、常に隣国秦の脅威にさらされた。韓非子の出身国。
田敬仲完世家 紀元前386年―紀元前221年。山東省を中心に力を持つ。先祖は紀元前672年、陳から斉へ亡命してきた陳の詞?躍の子、公子完である。景公以降力を持ち、事実上国を支配するようになる。紀元前386年に安王によって諸侯に立てられ田斉として成立。三代目威王の頃勢力を強くし、一時は東の斉。西の秦時代を作った。しかし紀元前284年楽毅に率いられた連合軍に破れ滅亡寸前に追い込まれる。復活するものの以後は衰退の道をたどった。

孔子世家 世家というのは世襲の家という意味で史記世家ではそれぞれの家の歴史を記述するがここは孔子に一人に的を絞る。孔子(紀元前551年―紀元前479年)は魯(山東省曲阜市)の下級武士次男。礼学をおさめ、魯に仕えたが、紀元前497年に失望して弟子と共に諸国巡遊の旅に出る。しかし孔子を受け容れる国は無く、紀元前483年69歳のとき魯に帰国した。その後、弟子の育成に専念し、73歳で没した。シャーマニズムのような原始儒教を体系化し、「仁」にとって統一、これによって道徳が保たれると説いた。死後、伯魚、「中庸」をあらわした子思に続くが、思想的には孟子や荀子に受け継がれる。
陳勝世家 始皇帝の死後、紀元前209年、辺境守備のため徴発された農民の引率補佐を任されていた陳勝は呉広とはかり、反乱を決意。陳勝は扶蘇、呉広は項燕と名乗り、多くの民衆を扇動する。陳を攻め取り、陳勝が王となり、国号を張楚と定めた。しかし秦を攻めるも章邯の軍に破れ、滅びてゆく。陳勝・呉広の乱と呼ばれる。
外戚世家 皇帝の外戚についての記述。高祖の正后に呂娥?がなったが、戚夫人が寵愛された。高祖が他界すると、呂后はあとを継いだ恵帝を無視して戚夫人に報復、あわせて呂氏一族を要職につける。しかし呂后死後、反呂氏勢力により一掃される、などの話が中心。

楚元王世家 漢は当初郡県制をしく地方と、諸侯王を封じた半独立国を作って治めさせる地方とを並立した。劉邦に従軍して功のあった末弟の劉交が、紀元前201年、謀反の罪で失脚した楚王韓心の後任として、旧領土を南北に分割した北部に楚王として封建された。(楚元王)王戊の代になり紀元前154年呉楚七国の乱に加担し、勢力をそがれた。またこの巻には趙王の系譜が帰されている。呉楚七国の乱で絶えた。

五宗世家 前漢第6代皇帝孝景帝には14人の子があり、一人が武帝、他の十三人が王となった。これを五宗世家というのは五人の母から生まれたからである。彼らがどのような場所で王になり、その後どのようになったかを記述している。
三王世家 孝武帝の子で、霍去病の上申が契機となって、斉王に任ぜられた?(こう)、燕王に任ぜられた旦、広陵王に任ぜられた胥の三王についての記述。孝武帝には他に最初皇太子であったが廃された戻太子、ついで皇太子となり武帝の後を次いだ昭帝、昌邑王になった?の参院がいたが記述はない。

090427