史記 5 司馬遷

ちくま学芸文庫 小竹文夫、小竹武夫訳

伯夷列伝第1 孤竹(国名)、国王の長男伯夷は、父親の遺言に従って三男の淑斉に位を譲ろうとしたが、淑斉は兄が引き継ぐべきだ、として固辞。二人で文王の支配する周に向かうが、到着したときには武王の時代になっていた。武王は殷の紂王を討とうと軍を動かしているところだった。二人は父親が死んで間もないのに主君である紂王を討つのは不孝・不仁と止めるが聞き入れられず、首陽山に隠れるが餓死する。この話は論語では美談として取り上げられ、兄弟は恨みを抱いて死んだわけではない、としているが、司馬遷は歌を引用して疑問を投げかけている。天道が正しいことを行っているとは限らない。伯夷・淑斉は賢人ではあるが孔子の筆を経てその名が現れるにいたったのである。
管晏列伝第2 管仲は斉の政治家で紀元前645年没。若い頃から鮑叔と交わり、その助けなどにより桓公のもとで宰相になり、内政を充実させた。斉は周辺諸国を従え、覇者となることができた。晏嬰はやはり斉の政治家で、紀元前500年没。霊公、荘公、景公につかえ、常に国家を第一として諫言をおこなった。管仲は賢臣、晏嬰は司馬遷自身生きていたら御者となって仕えたいほど、と評価している。
老子韓非子列伝第3 老子、荘子、韓非子等について述べる。老子が尊ぶ道は、虚無で実体がなく、自然により変化し、無為のうちに千変万化する。そのため理解しにくい。荘子は、道徳を自然の道に帰するものだ。韓非子はすべて法律で割りきるが、その結果は残酷で人間味を欠いた。以上のうち深遠なのはただ老子のみである、と結論している。

孫子呉起列伝第5 孫子は紀元前500年頃に生きた人で、呉につかえ、曽野勢力拡大に大きく
貢献した。戦士研究の結果から戦争には勝った理由、負けた理由があるとして分析した「孫子」は余りにも有名。呉王に謁見したとき、実際の練兵を王の夫人たちを使って見せることになった。笑って指示に従わなかった王の寵姫を見せしめとして斬ったエピソードが冒頭をかざる。
呉起もまた軍人政治家。紀元前381年没。祖国衛を出た後、魯につかえて将軍と成るが讒言により再び出国、魏の文侯、ついで楚の悼王のもとに走る。孫子は?涓をだましたこと、呉起が楚で刻薄残暴、温情を書いた政治を行ったことが明白で最後にはその報いを受けた、悲しいこととしている。
伍子胥列伝第6 紀元前484年没。呉に仕え、その躍進に貢献した。国王夫差に薦めて越をうち父の恨みを晴らさせるも、越王勾銭を許す。伍子胥は越王勾銭が、会稽の山で臥薪嘗胆していると知り、夫差に今のうちに滅ぼすよう進言する。しかし夫差は、進言を無視して斉への出陣に明け暮れる。伍子胥は疑いをかけられ、国の将来を憂えながら自決する。死後、越を警戒するものがなくなり、呉は予言どおり滅ぼされることになる。
仲尼弟子列伝第7 孔子の弟子は70人いる。弟子の姓名や文辞を論語の孔子と弟子の問答より取り、順序だててこの一編を作っている。


蘇秦列伝第9 紀元前317年没。鬼谷子に縦横の実を学んだ。奇抜なアイデイアで諸侯を説き伏せ、あわよくば自らも出世しようとする考え方。戦国7雄が競ったころ、燕の文公に仕えて、趙との同盟を成立させ、韓、魏、斉、楚の王をといて周り、同盟して強国秦に当たる合従の策を説いた。一時は六カ国の宰相をかねた、といわれる。
張儀列伝第10 紀元前309年没。魏の人。強国秦と他の国を上下関係で結びつける連衡策をとり、これによって蘇秦の合掌策を打ち破ろうとした。張儀の策謀が激しかったにもかかわらず、世間が蘇秦を非難するのは張儀の喧伝のため、この二人は真に危険な人物である、と司馬遷はしている。
白起王翦列伝13 ともに秦の名将。白起は昭襄王に仕え、趙、魏、楚の多くの城を落とし、多くを殺し、武安君との称号を得たが、最終的には、宰相范雎にねたまれ自害させられた。王翦は政(後の始皇帝)に仕えて、楚を滅ぼすなど功績があったが、晩年は老齢のため重用されなくなった。

孟子荀卿列伝第14 孟子のころ諸侯は、合従連衡により、力をつけようとしていた。そんな中で、あえて堯・舜・三代(夏・殷・周)の徳を述べたが、受け入れられなかった。荀卿は過去の儒・墨・道三家の盛衰をつらねて論じた。
孟嘗君列伝15 紀元前279年没。戦国四君の一人と言われる政治家。田文といい、斉の人、聡明の噂が高かったため、秦の昭襄王は宰相として迎え入れようとするが、讒言により殺されかかる。ようやく脱し、斉の宰相となり、韓、魏の軍と連合して秦を打った。しかし?王の時代になり、疑われたため魏に逃亡、魏の宰相となる。楽毅の主導で5カ国連合が成立し、?王を破る。その後滅亡寸前になった斉に戻り、迎えられる。死後孟嘗君と諡された。
平原君虞卿列伝第16 平原君(紀元前250年没)は趙の公子で戦国四君の一人。秦が趙の首都・邯鄲を囲んだとき、趙王の使者となって楚に赴き、食客の毛遂の働きによって援軍を得ることに成功。楚と魏の援軍が到着する前に急を告げたので、やはり食客の李同が三千人の決死隊とともに秦軍に突撃し、時間稼ぎに成功。趙は救われた。虞卿は遊説の士で、趙のために画策したが、友人魏斉を見殺しに出来ず、大梁で困苦することになった。虞氏春秋をあらわし、史記に影響を与えた。

090427