史記 6 司馬遷

ちくま学芸文庫 小竹文夫、小竹武夫訳

楽毅列伝第20 紀元前295年頃燕に仕官。燕は斉により一度滅びかけており、この当時太子として辛酸を舐めた昭王は斉に対して強い恨みを抱いていた。しかし斉は当時桁外れの力を有していた。そこで燕は、韓・魏・趙・楚と連合軍を形成、楽毅を将軍として斉軍を済西で打ち破った。しかし紀元前279年昭王が死に、楽毅を嫌う太子の恵王が即位、身の危険を感じ趙に亡命することとなった。宮城谷昌光が1996年に「楽毅」を上梓している。
田単列伝第22 紀元前3世紀前半。斉の武将。紀元前284年、斉は諸国の連合軍に敗れ、さらに燕の将軍楽毅に攻め立てられ首都臨?を含めてほとんどを失った。そこで最後に残った即墨に立てこもり、敵をひきつけ、夜陰に刃物をつけた牛を敵陣に放って大混乱に陥れる。これによって失った城を取り返し、その公で安平候に封じられた。
屈原賈生列伝第24 紀元前343-278。楚の政治家・詩人であった。秦の張儀の謀略を見抜き、躍らされ踊らされようとする懐王を必死で諌めたが受け入れられず絶望して汨羅に身を投じた。その「懐沙の賦」が掲載されている。その後楚は日一日と地を削られ、数十年でついに秦に滅ぼされた。屈原が汨羅に沈んで百余年たった後、左遷され、不遇の身となった漢の詩人賈生が「服鳥の賦」を作って屈原を弔った。

呂不葦列伝 25 河南の大商人。秦王室華葉夫人に、流浪の身にあった秦の太子子楚を、売り込む。一方で子楚の希望に応じ、自分の妾を提供、彼女が後の始皇帝となる政を産む。子楚はやがて荘襄王となり、呂不葦自身はその元で丞相、さらに始皇帝のもとで相国になる。しかしかっての妾、今は夏大后との淫乱な関係が発覚し窮地に陥る。一方で彼は、他国に対抗して賓客を集め、呂氏春秋を編纂させた。
刺客列伝第26 列伝の中でかなり特異な存在。為政者を暴力で脅し、または殺そうとした5人について述べている。一番最後に紹介されている荊軻は、燕の太子の命をうけ、策略を用いて秦の政(後の始皇帝)を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺される。殺されかかった秦王は激怒し、燕の首都の薊(現在の北京)を陥落させ、222年には完全に滅ぼした。1998年の中、日、仏、米合作映画「始皇帝暗殺」はこれを題材にしている。
李斯列伝第27 紀元前208年没。秦の呂不韋の食客となり、その死後、皇帝となった始皇帝の元で力を発揮、対抗馬となりかけた韓非を忙殺し、権力を掌握した。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一などを行った。始皇帝死後、趙高と共に偽詔を作って、胡亥を即位させ、元の太子扶楚を自決させた。しかし秦の基盤が緩み、陳勝・呉広の乱が勃発、国内は大混乱になった。二世皇帝は遊びほうけていたため、これを諌めようとしたが、逆に趙高の策略で追い詰められ、刑死させられることになった。

蒙恬列伝第28 紀元前210年没。秦王朝の武将で匈奴征伐に功績をあげた。しかし紀元前210年、始皇帝が死ぬと胡亥、趙高、李斯が共謀して胡亥を王に立て、自らの権力を守ろうと画策、始皇帝の詔書を偽造し、太子扶蘇と蒙恬に対し、自殺を命じた。
鯨布列伝第31 秦の時代には庶民であったが、刑罰を受けるがやがて王になるだろうと言われた。動乱期に仲間とかたらって挙兵し、項梁、項羽に仕えた。項羽の命により義帝を殺害したといわれる。やがて説得され劉邦の配下として参戦。劉邦が皇帝に即位すると淮南王に封建される。しかし異性の韓信、彭越等が処刑されると反乱。一時はかなりの勢力を誇ったが紀元前195年に鎮圧された。鯨布は項軍にあって、残虐の首魁であったが、やがてはわが身も世の大殺戮を受ける運命となった。
淮陰侯列伝第32 淮陰侯韓信。貧乏で素行も悪かったが、紀元前209年に項梁。続いて項羽に仕える。認められずやがて劉邦につかえ、鼓城の戦いではその撤退を助けた。趙、魏を滅ぼし、斉王に封建され、楚漢の戦いに30万の軍を率いて参戦、垓下の戦いで項羽を自決に追いやる。しかし讒言により謀反の疑いをかけられ、左遷される。紀元前196年、鉅鹿の反乱に乗じて、自らも反乱を企てるが失敗、殺される。

韓王信盧綰列伝第33 韓王信(紀元前196年没)は、劉邦が始めて封建した王。しかし冒頓単于と休戦交渉の末投降、以後匈奴の武将として働くが柴武との戦いに敗れ切られる。盧綰も劉邦の愛され燕に封建された。しかし謀反の企てありと告発され、劉邦の死後、匈奴に亡命する。

張丞相列伝第36 紀元前152年没。罪を得て斬刑にされるところ、背が高く丸々と太っていたために救われた人。武功もあったが、計算を得意とし、戸籍の統計をつかさどるなどした。書や律歴に詳しく、漢が五行思想における水徳であることや、10月を1年の最初の月とする暦を定め、また調律を行い、音楽を定めた。

090427