史記 7 司馬遷

ちくま学芸文庫 小竹文夫、小竹武夫訳

袁??錯列伝第41 袁?は文帝のもとで数多くの直諌をいった。丞相周勃を社稷の臣でないと非難したり、淮南王が驕慢であるとして領地を削ることを薦めたり、皇后と愛妾が咳を争った蔡、後者を下げたなどである。?錯は次の景帝に非常に信任された。袁?と仲が悪く、その追い落としに成功する。しかし呉楚七国の乱で反乱軍側は「君側の奸」として、朝廷を清める目標を掲げた。景帝に直接呼ばれた袁?が「?錯を殺せばいい」と進言したため、腰切の刑に処せられ殺された。司馬遷は袁?が名声を誇り、賢脳を誇り、名声に敗れた、?錯を内乱のおり、私怨を報いようとして身をほろぼした、としている。
田叔列伝題44 先祖は斉の田氏で清廉、剛直な人柄、剣を好み、黄老の術を学んだ。趙に仕えた後、高祖劉邦に仕えた。梁孝王劉武が漢の大臣袁?を暗殺する事件の処理などが知られている。最終的には魯王の相に任命された。
扁鵲倉公列伝45 扁鵲は古代中国、特に漢以前の中国における伝説的な名医である。紀元前655年の郭という小国の滅亡以来、紀元前350年の秦の咸陽遷都まで活躍したとされる。
倉公は若い頃から公乗陽慶から扁鵲の医術を伝授されたが、讒言により肉刑にされかかった。しかし四女の上書で救われ孝文帝の時代に活躍した。多数の事例が挙げられている。
呉王?列伝46 高祖は郡国制をしき、呉、会稽の二郡を治めるために、兄劉仲の子で二十歳の?(ひ)を王とした。しかし彼は国内が豊かであったこと、息子が皇太子時代の景帝に些細な口論から殺されたこと等で次第に独立色を強めた。景帝は諸侯を抑えるために晁錯を用い、諸侯の領土を削り始めた。紀元前154年、呉にも削減命令が出たことをきっかけに、楚、趙などに呼びかけて反乱した。呉楚七国の乱という。しかし斉都臨?などが加わらなかったことで足並みが乱れ、戦意をくじかれ、結局は押さえ込まれた。
李将軍列伝第49 紀元前119年没。紀元前阿166年、匈奴征伐に功があり、文帝に仕え始めた。景帝の時代に呉楚七国の乱で功績を挙げるが、反乱軍の梁王武の将軍に任じられていたため恩賞を受けられなかった。その後も匈奴征伐に活躍し、飛将軍と恐れられた。しかし紀元前129年に匈奴にとらわれ、逃げ帰るも平民に落とされた。後に衛青のもとに復職するも、成功しなかった悲劇の将軍である。
匈奴列伝第50 匈奴の始祖は、夏后氏の後裔で淳維。ここでは匈奴と中国王朝の確執を述べる。匈奴は冒頓単于(紀元前174年没)のときに最強と成り、漢と有利な条件で講和、漢から毎年財物が贈られた。武帝の時代に至り、この屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始した。しばらく一進一退が続いたものの、結局匈奴はより奥地へと追い払われ、その約60年続いた隆盛も終わりを告げた。
衛将軍驃騎列伝第51 衛青(紀元前106年没)は幼少から匈奴と境を接する地方で羊の放牧をしていたため匈奴の文化や生活に詳しかった。姉の衛氏夫が武帝の寵姫となったことから、匈奴征伐の車騎将軍に抜擢され連戦連勝、匈奴の首を多く討ち取り、領土を奪い大いに活躍する。甥の霍去病(紀元前140-紀元前117年)が台頭して、譲る形になるが夭逝したため、軍の一人者であり続けた。
南越列伝第53 南越は紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からヴェトナム北部に自立した王朝。首都は番禺(現在の広州市)。南海都尉趙佗が建国し、紀元前196年、紀元前179年に朝貢したが、5代君主趙建徳と漢の武帝の間で戦争が勃発し、滅ぼされた。
東越列伝54 越王句践の子孫は、漢の時代になって?越、東甌に別れていた。呉楚七国の乱のおり、東甌は、一時は呉王?に組したが、形勢不利となると?を切った。武帝は、その後東甌全住民を江・淮の間に住まわせた。さらに楊僕に?越の地で東越王と称していた余善を殺して東越を滅ぼし、住民を東甌同様にしたため、同地は無人の地になったといわれる。 
朝鮮列伝第55 燕の全盛期その支配下に入っていたが、高祖の時代に衛が、燕の王族とともに亡命し、平城を首都として王位についた。しかし孫の右渠の代に、武帝の逆鱗に触れ、遠征が行われ滅ぼされた。衛氏朝鮮は朝鮮最初の国家である。
西南夷列伝第 56 蜀の南には数十の国があったが、夜郎、その西方の?、?の北の?都などが大きかった。武帝に派遣された唐蒙が南越を滅ぼした後、夜郎候多同を説得して役人を置き、多同の子を県令とした。ついで?、?都にも同じようにした。彼らはしばしば反乱したが、漢は遠方のため、有効な手を打てなかった。張騫が大夏から戻ると、さらに西方に身毒国(インド)があると報告したため、通じさせることを試みたが失敗に終わった。
司馬相如列伝57 紀元前179年―紀元前117年。武帝に仕え、「子虚之賦」でその才能を高く評価された文章家。若い頃資産家の娘卓文君を恋し、妻とし苦労した話も有名。彼が最後に進めた封禅の儀はその死後8年を経過して泰山で行われた。

090427