史記 8 司馬遷

ちくま学芸文庫 小竹文夫、小竹武夫訳

淮南衡山列伝第58 鯨布の反乱が失敗した後、高祖の末子劉長が淮南王となった。鼎を持ちあげるほどの力を持っていた。文帝が即位すると、親しい親族であることを笠に来ておごり高ぶり、終には漢の法律に従わず、自国で自ら法令を作り天使の制度を用いるなど不遜な行為が目立った。紀元前174年に柴木等と反乱を起こそうとしたことが発覚し蜀へ流されるが途中で死去する。文帝はこれを哀れみ、子の安を淮南王とした。しかし呉楚七国の乱の後、王后荼、太子遷などとともに、再び重臣伍被等が止めるのも聞かず反乱を計画、失敗する。

大宛列伝第64 紀元前2世紀頃より中央アジアに存在したアーリア系民族の国家。武帝の時代に大月氏と組んで匈奴を滅ぼそうと考えて、張騫が派遣された。彼は匈奴にとらわれ苦労するが、大宛、唐居、大夏、烏孫、于ゥなどの存在を明らかにする。中でも大宛は血の汗をかくという名馬を産出するとの情報。そこで李広利の遠征軍を派遣し、打ち勝ったため大宛は漢の影響下に入った。そこで交通路を確保するとともにさらに西方にも使者を派遣した。

太子公自序第70 司馬氏は代々天地を秩序付ける官職を世襲した。漢の時代になって無沢が長安の4つある市のうちのひとつの市長となった。その子喜は五太夫で死んだが、次の談は太子公になった。武帝に仕え、学者たちが学問の真偽を会得できずにあやまっているのを正そうと、陰陽家、儒家、墨家、名家、法家、道徳家の学問についてその要旨を論じた。しかし封禅の礼において用いられず、息子の遷に「お前が太子になったなら、わしが書きたいと思っていたことを書いてほしい」と言ってなくなった。周公がでて500年して孔子がでて「春秋」をあらわし、その後500年して今日に至るがその間の史官の記録のことである。そこで私(遷)は論述を始めたが、7年後李陵を弁護した罪によって、獄舎に幽閉され処刑(宮刑)されるという災いにあった。その後退いて深く思いを潜め、志すところを遂げたいと考えた。こうして終に十二本紀、八書、十表、三十世家、七十列伝、合計百三十篇を書いた。

090427