ソクラテスの弁明・クリトン    プラトン

岩波文庫

ソクラテス(BC469-399)は石工の子として生まれ、生涯のほとんどをアテナイで暮らし、ペロポネソス戦争に従軍した。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。
一時期隆盛をきわめたアテナイは、長年にわたったペロポネソス戦争(BC431-404)でスパルタに敗北し、権威を失墜した。「三十人」の恐怖政治に苦しんだ後、再び民主主義に戻ったが以前のような繁栄は望むべくもない。そんな中で復古を念とした反動時代に入ってゆき、新思想は神々の機嫌を損ない、反民主思想につながると考えられた。ソクラテスは青年たちに危険な思想を吹き込んでいると告発され裁判にかけられることになった。

「ソクラテスの弁明」は自己の所信を力強く説明するソクラテスを、その弟子プラトン(BC427-347)が書きだしたものである。
ソクラテスはアポロンの宣託を通してもっとも知恵のある者とされたとしている。これは自分だけが「自分は何も知らないことを自覚しており、その自覚ゆえに他の無自覚な人に比べて優れていると考えていたようだ。しかしそれを確認するためにいろいろ対話を行うのだが、結局相手が「知っているといっていることを実は知らないのだ。」と暴くことになり、論破された相手はソクラテスを憎むようになり、告訴されたらしい。
弁明で告訴者メトレス等への反証では彼流の弁術が冴え渡っている。論理はある角度からのみ考えれば正しく、高潔な人に聞こえる。「人はいかなる位置にあっても、それがみずから最良と信じた者であれ、もしくはそれが指導者に指定されたものであれ、それこそ、危険を冒しても、固守すべきであり、恥辱に比べては、死やその他の如きは豪も念頭においてはならないからである。」(16)
しかし、論理のための論理と感ぜざるを得ない。
彼が政治に首を突っ込まなかった点について「私は諸君に断言する。私にしてもしつとに政治に携わっていたならば、私はもうとくに命を失ってしまっていて、諸君のためにも私自身のためにもなんら益するところがなかったに違いないからである。・・・・正義のために戦わんと欲する者は、もしたとえしばらくの間でも生きていようと思うならば、必ず私人として生活すべきであって、公人として活動すべきでない」(19)

「クリトン」はこの続編とも呼ばれるもので、不正な死刑の宣告を受けた後、国法を守って平静に死をむかえようとするソクラテスと脱獄を勧める老友クリトンとの対話からなっている。ここでもソクラテスは妥協しない、裏を返せば協調性のない論理を繰り返している。「私が生を受けたのは国家のおかげではないか。国法に従っているものが私の父に命じ私に学芸と体育の修行をさせるようにしたではないか。それなのになぜ私が脱獄するという国が命じたことを破るようなことをすることが出来ようか。私と国と同じ権利をもっているわけではない。」などとクリトンをねじ伏せてしまうのである。
「祖国が忍従を命ずるものは、それが殴打であれ、投獄であれ、また負傷もしくは戦死の恐れある戦場に我らを送ることであれ、黙ってこれに忍従しなければならない。これはなすべきことでありまた法の要求するところである。」(12)・・・・・こうなると私はただ口をアングリさせて考え込むばかりである。

ソクラテス自体は自説の著作を残さなかった。この二つの作品やクセノホンの「ソクラテスの思いで」などを通して彼の足跡を知るのみとか。しかし難しい人だったろうなあ!同時代の作家アリストファーネスは戯曲「雲」において、ギリシャのソフィストたちを揶揄し、その筆頭としてソクラテスを揚げているそうだ。機会があったら読んでみたい。

041210