小説千利休  竜門冬二

PHP文庫

利休の死について石田三成陰謀説、家康を茶席で殺せと頼まれたが従わなかった、娘を差し出さなかった、などいろいろな説がある。しかしこの書の秀吉の人間性と千利休のまちびと思想に力点をおいた説が、一番説得性があるように思えた。

この書を下敷きに千利休の死に対する自分なりの考え方をまとめてみたい。

信長、秀吉、家康、三者の中で、上につかえる現代流にいえば厳しいサラリーマン生活を続けたのは秀吉である。何十年か仕えるうちに上の言う事がすべて絶対である、逆に言えば下は何でも上の言うことに従うべきである、という考えが植えつけられた。

千利休の出た堺は、商人が武士から自由を買ってそれを謳歌していた。千利休は子供のころから風潮に染まっていた。なるほど織田信長に矢銭を払って協力したが、屈した、とは考えなかった。この自由という思想は曲者である。知らなければそれほどの意味を持たない。しかし一度味わった人間は、それを奪われるとひどく窮屈に感じる。

その思想が千利休に茶道をして平等という独特の思想を編み出させた。にじり口を通過することによってすべて人間は平等になる。この書にいう「まちびと」の思想である。(もっともこれは権力者が自分と平等になる、という思想であり、自分より下のものが自分と同じ地位に上がってくると考えたかどうかは疑問だが・・・・)

とにかく二つの考えは相容れない。加えて千利休は秀吉に比べ相当年上である。上下関係から言えば千利休が妥協すべきであるがそれができない。

小田原参陣時代、彼には秀吉憎し、の考えが炎のように燃え上がっていたに違いない。利休の弟子の山上宗二の問題である。

私の考えでは宗二は典型的なバカである。己の力を過信したバカである。一端秀吉のもとを離れ、北条に仕えたものが再び秀吉に戻ったところで価値を認められるわけはないのだ。サラリーマン生活から考えれば当然である。それを拾ってもらった恩を忘れてたてつくのである。こんな行動は秀吉の考えの外である。

しかし秀吉が宗二を切ったことは千利休にどのような影響を与えたろう?この男とはもう一緒にやってゆけぬ、との気持ちを抱かせたはずだ。

千利休は小田原から京都に帰されことになったとき、むしろ開き直った気持ちではなかったか。開き直るその裏にはおれは信長様以来仕えている身だ、の意識がなかったか。大徳寺山門に木像を置いたことを非難されたとき、殺される可能性もないではないが多分大丈夫、と相手の力を軽く考えたに違いない。だからねねなどの女性を通じて弁解をしようとしなかった。

しかしその考えは甘かった。秀吉は、小田原ではまだ千利休に殺すほどの憎しみがなかった。それが京都に行って変わった。最後には徹底的に利休を憎んだ。生首の上に山門から降ろした利休像をのせてさらし者にした、という措置ではっきりしている。

山門事件。秀吉はこれを千利休の再試験と考えた。謝るなり、木像をおろすなりの措置を取るなら、そこを機に矛を収めてやろう、と考えていたのではないか。それを千利休はしなかった。このことは秀吉の千利休が信長の遺臣である、ということを思い出させた。

サラリーマン社会で組織の長、つまり社長が変わると前の長に仕えていたものは不要になる、時には復古を恐れて攻撃の対象となる。ただ、現代では左遷であるとか、引退であるとか分からぬ方法で決着をつける。

しかし武将の世界は違う。秀吉は柴田氏、丹羽氏など信長時代の将を次々倒して行った。そして子飼いの福島氏、加藤氏などを重用して言った。その延長で考えれば、秀吉が従わなかった千利休を倒すべき対象と考えたとしても不思議ではない。

秀吉は、本当に茶道を愛したわけではない。信長以上に茶道など出世の道具、あるいは諸将を経済的に操る道具と考えていたに違いない。道具の頭目が従わぬ・・・・。

「なかざれば、なかしてみしょう ホトトギス」

信長、秀吉、家康を比較する有名な句のうち秀吉のものである。しかし最後まで千利休はなかなかったのである。それがこの上なく憎かった。