岩波文庫 梅原 眞隆訳註
新しい本を読むとき、いろいろなきっかけがある。お葬式やお墓は仏教を利用させてもらっているけれども、私は仏教徒である、と言うわけではない。しかし五木寛之「大河の一滴」倉田百三「出家とその弟子」青木新門「納棺夫日記」などを読むうちに「歎異抄」を読んでみたくなった。
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて信ずるのほかに別の子細なきなり」(第二条)「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(第三条)「浄土の慈悲と言うは、念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、思うが如く、衆生を利益するをいうべきなり」(第四条)「親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にも念仏申したること、いまだそうらわず。」(第五条)「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(第六条)などの言葉がよく思想を表しているように思う。
「弥陀は衆生を救うために、ただ念仏を唱えなさい、と教えてくれた。私はありがたくそれを信じる。私は煩悩具足の身である。だから念仏を唱えて親を救う力などありようもない。弟子も同様に面倒をみるなどおこがましいことはできない。私は今は自分のことで精一杯である。しかし運良く弥陀に救われて仏の身になったならば、衆生に利益することを考えたい。」と言うことになる。
第十一条以降は他の考え方の非を唱えたり、あるいは彼らから出される疑問に答えている。
「単に念仏だけを唱えたからといって、経典を読んだり釈文を学んだりしないものは往生できない。」「弥陀のお慈悲は深いから許してくれると悪いことをしても恐れない人は、往生できない。」「一声で八十億劫の間迷わねばならぬ重い罪が滅びるのだから、一声でも多く念仏するようにしなければならない。」「信心を獲得したからには、煩悩づくめのまま現世でただちに覚りを開くことができる。」などの考えに一つ一つ反論している。
この書の魅力は親鸞が「弥陀の教え」とは何か、を純粋につきつめて、一つの考えに達し、それを元に徹底的に主張していることであろう。親鸞の純粋さが心をうち、その自信には微塵の揺らぎもないように見える。信心に対する一つの考え方として、たいそう読みがいがあった、と感じる。
なお歎異抄は異を嘆くの意なのだろうが、「たんいしょう」と読むべきか、「たんにしょう」と読むべきか。広辞苑では両方を採用していた。また抄の字は文庫では金篇になっていた。漢和辞典で字の意味を調べたが、どちらも少が音を表し、とる、かすめとる、抜き書きするなどの意味で大きな違いはないようだ。
010320