新潮文庫
1635年、ローマ教会に日本に布教のために派遣されたフェレイラ教父がさまざまな迫害を受けた後棄教した、との報告を受けた。幾多の議論の末、潜伏布教を行うためにセバスチャン・ロドリゴ等三人の若い司祭が派遣されることになった。マカオに寄った後、ロドリゴとガルベが日本にたどり着いた。
この書は前半四割をロドリゴの書簡という形を取り、日本についた二人が悪戦苦闘しながら潜伏布教に努力し、最後には捕らえられる過程が描かれる。
後半は捕らえられて、通辞、井上筑後守、転んだフェレイラ司教等と議論し、くどかれ、脅され、最後には自分自身民衆を救うために転向してしまう。
その過程を通して日本人なら誰でもが持つであろう疑問を呈示し、キリスト教の良いところと悪いところを抉り出している。それはキリスト教にどっぷり漬かった西洋人ではなく、ややはすに見ることの出来る日本人にのみ可能なアプローチに見え、非常に感動した。
(1)なぜ彼らは強引に布教しようとするのか。彼らの真のねらいは何か。
(2)外来文化を日本はどのようにして受け入れてきたか。
(3)キリスト教徒にとって何が一番大事なのか。
それぞれの問いに対する答えは以下の引用に要約されているように思う。
最後についに「転ぶ」その理由こそ、作者がキリスト教を自分なりに咀嚼し、解釈した愛の姿であると考える。祈っても神は何もしてくださらない、教義を守って困っている人を助けないというのは結局自分のエゴだ、そこを脱却して行動しなければ愛を為し得ない。
つい最近読んだ「サマー・アポカリプス 」(笠井 潔)にある言葉を思い出す。
「私は、餓死寸前の子供に向かってパンを与えるのでなくとくとくと福音を説くような愚を犯すまいと考えているだけなのです。」
・ 人の前にて我を言いあらわす者は、我も亦、天にいます我が父の前にて言い表さん。されど人の前にて我を否む者は我も亦、天にいます我が父の前にて否まん。(53P)
・ 自分がついに捕らえられたのだということが動かしがたい事実だと理解は出来ても、あたりはこんなにのんびりしてまるで錯覚ではなかったのかと思える。なぜか知らぬが、彼は、今「安息日」と言う言葉さえ思い出していた。(103P)
・ パードレの宗旨は確かに正とすべきであろうが、我々がキリシタンを禁制にしたのは重々、勘考の結果、その教えが今の日本国には無益と思うたからである。(140P)
・ (1)もし正が不変でないという気持ちがあれば、どうしてこの苦しみに多くの宣教師達が絶えられたでしょう。正はいかなる国、いかなる時代にも通ずるものだから正と申します。ポルトガルで正しい教えはまた、日本でも正しいのでなければ正とは申せません。(140P)
・ 基督は祈りは唱えてもユダが血の畑で首をつったとき、ユダのために祈られただろうか。(147P)
・ (1)自分がやがて殺される日、外界は今と同じように流れていくのか。自分が殺された後も蝉は鳴き蝿は眠たげな羽音を立てて飛んでいくか。それほどまで英雄になりたいか。お前が望んでいるのは、本当の密かな殉教ではなく、虚栄のための死なのか。信徒達に褒め称えられ、祈られ、あのパードレは聖者だったと言われたいためなのか。(154P)
・ (3)お前は彼らのために死のうとてこの国に来たという。だが事実はお前のためにあの者たちが死んでいくわ。(174P)
・ (2)この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教がもっとも華やかなときでさえも日本人達はキリスト教の神ではなく、彼らが屈折させたものを信じていたのだ。(191P)
・ (3)わしが転んだのはな、いいか、聞きなさい。その後でここに入れられ耳にしたあの声に、神が、何一つなさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ。(214P)
・ (1)お前は彼らより自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶといえばあの人たちは引き揚げられる。(216P)
・ (1,3)自分は布教会から追放されるだけでなく、司祭としてのすべての権利を剥奪され、聖職者達からは恥ずべき汚点のようにみなされているかも知れぬ。だがそれがどうした。それがなんだというのだ。私の心を裁くのはあの連中ではなく、主なのだと彼は唇を強くかみながら首をふる。(222P)
・ (3)踏むがいい。踏むがいい。おまえ達に踏まれるために、私は存在しているのだ。(224P)
(1966)
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