新潮文庫
幕末、越後長岡藩の河合継之助は、藩の持て余し者だったが、志願して江戸にでる。山田方谷などいくつかの塾に学びながら、詩文や語学など単に知識だけを得ようとする学問はいっさいせず、歴史や世界の動きなど、ものごとの原理を知ろうとした。
時代は大きく変わろうとし、幕府は、京都から長州を追い出して、守護に会津藩を当たらせ、その下に越後長岡藩松平忠恭をおこうとするが、「幕府は滅びる」と読んだ継之助は、主君を押しとどめる。この功が認められ、継之助はいつか藩を動かす老中になっていた。
やがて薩長の策謀により、大政奉還が宣せられた。徳川の恩顧を受けた東北の小藩として、どのような行動をとるか考えた末、継之助は新時代での自藩の独立を模索するようになる。そのために金をもうけ、武器弾薬を横浜のスイス人から購入し、藩兵を訓練するなど、来るべき日に向けて準備を始める。
・根本義を、武士は考えてはならぬのだ。町人も百姓も、嫁も姑も、物を考えてはならぬ。それが美徳なのだ。(13p)
・知識は行動と一体でなければならぬ。(王陽明)(17p)
・我が身の無事を祈る心が、徳川三百年の最高の美徳(46p)
・関内・・・神奈川渡船場、吉田橋、野毛山
・文明という物は民族や国家観で互いに影響されあうことによって発展する物(153p)
・心は万人共同であり、万に一つである。・・・賢愚は気質によるものだ。(167p)
・おれは、越後長岡藩士という立場を、一部たりとも話さぬ。立場を離れれば、宙に浮いたような一生を送ってしまう。(197p)
・(天皇は)この国の王家であるとともに、日本の固有信仰である神道の宗家でもあった。(209p)
・不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、到底人物とは言えぬ。(242p)
・士のお扶持とはつまり、士を押入に閉じこめてご飯だけをあたえるということでございましょう。(285p)
・たとえば幕府や諸般の役職は、必ず同一職種に二人以上がつく。・・・その点で責任の所在がどこかぼやかされていた。(375p)
・江戸時代は東日本は金、西日本は銀というようにしてやってきたが・・・(467p)
・汝に休息ナシ、という諺があります。・・・神が天才に与えた最大のほめ言葉です(501p)
・藩のためにもなり、天下のためにもよく、天朝も喜ぶ、幕府も笑い、領民も泣かさず、親にも孝に、女にももてる、と言うような馬鹿な生き方があるはずがない。(537p)
r990929