岩波文庫
山奥で10年の間、みずからの知恵を愛し、孤独を楽しんだツアラは山をくだった。途中で神を愛する聖者にあうが、分かれた後、あの聖者はまだ神が死んだことを聞いていないのだ、という。
街に出て民衆に呼びかける。「わたしはあなたがたに超人を教えよう。人間は克服されなければならない或物なのだ。あなたがたは人間を克服するために、何をしたというのか。」
あなたがたは虫から進歩し、猿を越えてきた。この道をひきかえそうというのか、人間は動物と超人の間にはりわたされた一本の綱だ、人間自身を克服すべきだ、と説く。
神が死んだために、その空白をうめるために超人が要請される。キリスト教が無から創造した西欧社会は、ギリシャ人たちが夢見たような世界ではない。人間は「大地の意義」にそって、生の意義を自分自身で求めなければならない。
超人の対照的なものとして「おしまいの人間たち」が描かれる。「畜群」とか「余りにも多数な者」とか「余計な者」とか「市場の蝿」とか「賤民」のたぐいで、これらはまさに大衆社会の蔑視と反感を語る。その根底には近代社会の平等化と集団化に対する激しい嫌悪がある。しかしさらに突き詰めて言うと人間の存在そのものに対する否定があり、これを突き破る者として超人が設定されているのである。
しかし彼は群集を説得することには失敗する。彼らの田舎にいる限り道化師の脅迫と死体の道連れしか手に入れる事ができぬ。自分の思想は少数のエリートに向かって説くよりほかはない、と悟る。「五色の牛」なるまちで、慕ってくる弟子たちに説教するが、人間の精神は服従と勤勉をこととする駱駝から、自由の意思を発揮する獅子にならなければならないと説く。
第三部以降になると「超人」から主題は「永遠回帰」にうつってゆく。ツアラは愛する弟子たちと別れ、独り旅し、山中の洞窟にこもる。「永遠回帰」の基本的考えは、過去の道と未来の道は「瞬間」(現在)と呼ばれる門の下で結ばれ、過去に生起したものはいづれ未来に生起するものとすれば一切は回帰するはずである、とする。そうした中で生の苦悩はいとわしく、嘔吐をもよおすものだが、それを認識した上で意思否定の道ではなく、むしろ負けない皇帝的な意思をもってすすむべきと説く。
この書の冒頭に「だれでも読めるが、誰にも読めない書物」とある。確かに読めるけれども、本当に何を言いたいのかはなかなか解釈の難しいところ。この書やニーチェ自身に対する解説があまた出ているらしいが私なりにかんじたところ・・・・。
続いて読んでいる「この人を見よ」によれば、彼の父は、公女たちに教え、プロイセン王に忠誠を誓う牧師であった。彼がうまれた翌年1849年に亡くなったが、その影響を受けたらしくエリート臭がふんぷんとしている。「永遠回帰」はともかくも、ナチスドイツの考えの基礎にもなったと聞く「超人思想」は、民主主義がオールマイテイの現在ではとても受け入れられるものではない。
しかし常識とか伝統とか風習とかそういった一切のものを否定し、人間以上のものをめざす人間の出現が今日ほど求められているときがないことも事実である。
050305