わが闘争       アドルフ・ヒトラー


角川文庫 平野一郎・将積茂訳

「わが闘争」は1924年、ヒトラーが国事犯としてレヒ湖畔のランツベルグ要塞で禁固刑に復していたおり、彼の協力者エミール・モーリスとその後片腕となって活躍したルドルフ・ヘスを相手に口述したものである。
多くの人々がナチス興亡映画「わが闘争」で、ナチスのなかんずくユダヤ人に対する非道な迫害の場面を見てやり場の無い憤りを感じたに違いない。そして一部にはヒトラーが流行性脳炎にかかり、脳を冒されていたためにあのような狂気に走ったとするむきもある。
しかしこの作品を読む限り、ヒトラーの主義はそれなりに合理性を持ち、首尾一貫性を持っている。さらにこのような思想を持つ彼が、大衆に熱狂的に指示される時代背景があったことも事実である。そういった考えから、その思想を理解し、自分なりに咀嚼して理解することも大切と考えた。
1918年、敗戦の結果ドイツは、ベルリンにおいて共和制を宣言し、いわゆるワイマール共和国が誕生した。しかしこの不幸な共和国は、最初から内外共に強力な敵に囲まれていた。外とは言うまでもなくウイルソンの平和主義を押し切って、懲罰的とも呼べる物質的保証を求めるフランスを中心とする勢力である。内にあってはホーエンツオレルン君主制を存続せしめようとした保守主義やドイツ陸軍首脳部であった。彼らは降伏文書に署名しながら、その責任を社会民主主義者に押し付けようとした。政権の座についた社会民主党は、保守第二政党的立場に立ち、人々の要望に答え得なかった。
とかくするうちに1919年ヴェルサイユ条約が締結された。そしてマルクの急激な下落と悪性インフレによる賠償支払いの停止、、フランスのルール占領などが起こった。民衆の間に不満が渦巻き、そこに共産主義がはびころうとする一方、軍国主義復活の波が沸き上がった。
ヒトラーは除隊後、ナチの前身たる「ドイツ労働者党」に入党し、ミュンヘンでマルクシズム、ボルシェヴィズム、平和主義、ユダヤ主義等に反対する運動に参加した。
1922年、バイエルン同盟の集会のさいの暴行によって投獄された。しかし党勢はドイツ各地でナチ党が禁止される事態になったにもかかわらず、拡張を続けた。1925年から大恐慌がくるまでしばらく雌伏の時期を迎えた。しかしその後総選挙で、多数の議席を獲得した。そして1933年、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領のもとに首相に就任したのである。
その根本的な思想は、第一にいわば生物学主義的アーリア人種(ドイツ民族)至上主義が挙げられる。人類を文化創造者、文化支持者、文化破壊者にわけ、文化創造者はアーリア人のみ、日本民族などその他の非アーリア民族はせいぜい文化支持者、ユダヤ人はもっとも忌むべき文化破壊者としている点である。そしてこれはアーリア人の優秀性を保つために「人類の純潔」を守る議論、不完全なる者の結婚禁止、ユダヤ人の罵倒に続くのである。確かにひどい思想だが、いまだに地球上にはこのような思想を信じている民族がいると思われることも注目しなければならないだろう。
第二は民主主義、議会主義の否定である。民主主義の思想は個人の平等という理念を基礎において始めて成り立ちうるものだが、彼の理論では優秀な人々が民族を支配すれば良いという考えになっている。これが発展してもっとも優秀な民族・人種が世界を支配すべきである、との理論に発展している。これもまたひどい思想だが、現在の世界でもなくなっているわけではない。
第三は反マルクス主義の思想で、これは反ユダヤ主義の思想と結びついている。彼はさらにこれを反スラヴ主義、反ボルシェヴィズム、東方への領土拡張へと結び付けて行くのである。
ただ共産主義が民主主義には繋がらず、個人の才能の発展を阻害するからうまく行かない、と断じているあたりは歴史がむしろその考えの正しいことを示しているようにさえ思えるから皮肉である。

・ 二つのドイツ人国家ドイツ・オーストリア両国の再合併こそ、われわれ青年が、いかなる手段をもってしても実現しなければならない、畢生の事業と考えられるからだ!(上22P)
・ 社会活動というものは慈悲を分け与えるものではなく、権利を回復してやるべき者であるということを、そういう種類の人々は認めようとしないのだ。(上50P)
・ 大衆の心理は、すべて中途半端な軟弱なものに対しては、感受性がにぶいのだ。(上75P)
・ この世のすべての独創的な事業は、大衆の怠惰に対する天才の目に見える抗議ではないのか。(上125p)
・ 一般に普通選挙から天才が生まれるだろうなどというナンセンスなことには、いくら鋭く対抗してもしすぎることはない(上136P)
・ 礼儀正しい態度で、平和的な心がけを耐えず強調しながら、人々が美しく、もったいぶって語るように、「諸民族の平和的闘争」において、自分のバナナは取って来ることが出来る、だから武器を取る必要はない、と考えることが出来るのは子供だけである。(上210P)
・ 国家の内面的な強さがいわゆる経済的発展と一致することはほとんど稀であり、むしろこの繁栄は無数の多くの例に依れば、国家がすでに滅亡に近づいていることを示しているようである。(上222P)
・ 国家を維持するだけの力とは現実になんであるか、と問うならば、それを二三の言葉に要約しうる。すなわち全体のために個人を犠牲にする能力と意思である、と。(上223P)
・ すべての世界観は反対者の理念の世界を消極的に絶滅させるために戦うよりも、むしろ自己の理念を積極的に実現させるために戦うのである。それゆえ、この闘争は防御よりも攻撃である。(上249P)
・ 民衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決めるという女性的要素を持ち、女性的な態度を取る(上264P)
・ 国家は断固とした決意で民衆教育の新聞という手段を確保し、それを国家と国民の役に立たせなければいけない。(上343P)
・ マルクス主義のように多数決を重んじたり、人格価値を否定したりしない。教育制度によって、現在の知識層が下層からの新鮮な血の導入によってたえず更新するよう配慮することは、民族主義国家の課題である。(下95p)
・ 演説家は、かれらが第一に自分が行ったことを理解したかどうか、第二に彼らが全体についてくることが出来るかどうか、そうして第三にどの程度まで提義したものの正しさについて確信したかどうか、を読み取る。(下146p)
・ 権威を形成するための第一の基礎は人気である。人気と強制力が結合し、それらが共にある期間継続することが出来ると権威はさらにもっと高い基礎の上で立ち上がることが出来る。(下209p)
・ 理念なくして闘争力なし。新しい大理念を明らかにしたことが、フランス革命の成功の秘密なのだ。(下229p)

「わが闘争」ノート

(基本的考え方)
・私はドイツとオーストリーの国境の小さな町に生れたが、同じ民族である両国の合併が夢であった。
* ハプスブルグは勢力が弱くなっているし、多民族国家でドイツ人の権利は失われているのだから、ドイツはこの国との連携を早く断ち切るべきだ。
* ドイツ民族復権策はキリスト教民主党、汎ドイツ党などによって進められたがいづれも不完全だった。ブルジョアジーを取り込むことは効果が薄い。また連中は下層階級への浸透が足りなかった。彼らには書き物よりも扇動や宣伝が重要である。
* 宗教は大事だが、宗教は政治に介入すべきではない。
* ユダヤ人は汚れた民族である。
* それと一緒に働くマルキシズムは撲滅しなければならない。
* 経済は重要だが、国家の一手段。領土的条件が存在しないことはあの汚いユダヤ人を見れば分かる。崇高な理念のために人は死ねるが金のために人は死ねない。
* 政治は議会を開いて、愚鈍な奴等の総意ですすめられるべきではなく、優秀な一人の人間の元で進められるべきだ。
* 優秀な民族に産児制限をしたりすべきではない。劣等な民族が滅びていけばいいのだ。
* 優秀な民族が増えると国土が足りなくなるが、それは侵略によって増やすべきかもしれない。日露戦争における日本の役割をドイツがすれば良かった。経済発展によって国を活性化させることも重要だが、軍事力なしで繁栄するなどと考えてはならない。
* 宣伝は一方的な発言だ。一つの事を真っ直ぐに強調して言え。宣伝は大衆に対してのみ行え。
* ドイツが負け、共和制に移行したのは前線で兵士が戦っているにもかかわらず、ユダヤ人やマルキスト等によって行われた兵器工場のゼネストのせいだ。
* 結果社会民主党のエーベンドルフのような男が政権を握った。私はこれではいけない、政治家になろうと決心した。

(テーゼ)
1国家の高揚に大衆の心を惹きつけるためには、どんな社会的犠牲を払っても大きすぎると言うことはない。
2大衆に対する国民教育は社会的向上という回り道を通って初めて可能。
3大衆の国民かは中途半端や客観的立場の弱々しい者で怒るのではなく、目標に向かって容赦のない態度をとること、熱狂的に一方的な態度をとることによって可能となる。
4民衆の心を獲得することは、3と並んで、目標の敵対者を絶滅させる場合にのみ可能である。
5およそ現代の問題はすべて刹那の問題だが、民族の人種的保存の問題だけは根元的な意味を持っている。
6国際主義の陣営には行っている我が民族大衆を、国家主義的な民族団体に編入するにあたって、身分上の利益を断念させる必要はない。下位の者を引き上げることによって実現される。
7一面的なそれだから明白な立場は運動の宣伝の中でも表現されなければならない。
8政治改革運動の目標は、啓蒙活動や支配している権力者に影響を与えることなどで得られはしないのであり、政治権力を獲得することによってのみ達成される。
9この若い運動はその本質及び内部の式からして、反議会主義である。多数決の原理を拒否する。
10この運動は、自己の政治活動の枠の外にある問題や、自己にとって原則的意味を持たぬ重要でない問題には、どのような立場の表明も断固として拒否する。
11運動の内部組織の問題は、都合の善し悪しの問題であって、原理上の問題ではない
12或る運動の未来は、支持者がその運動をどれだけ正しいものであると主張し、同じ様な性質のある他の組織に大して最後まで貫き通す熱狂、いや不寛容さによって左右される。
13構成員を、闘争を何か自然な成長に任せて良い者と考えるのでなく、自ら追い求めなければならぬものと見なすように教育しなければならない。
14この運動は人物に対する尊敬を、あらゆる手段を尽くして助長しなければならない。

(歴史)
・ 1920年2月24日ミュンヘンのホーフブロイハウスのフェストザールで国家社会主義ドイツ労働者党の第一回大公開示威が行われ、綱領が承認された。戦いの敵はユダヤ人カールマルクスが創り出した世界をユダヤ人の手に渡そうとするマルキシズムだ。マルキシズムは労働者の食い込んでおり、そのためブルジョアジーたちの生ぬるいやり方では勝利できない。我が党は民族主義的世界観を確立しこれに戦いを挑んでいる。
・ われわれの目指す民族主義国家は、人種を一般的生活の中心点におく。人種を発展させるために優れた子孫を残さねばならない。その為に教育下層からの人材の循環、スポーツ教育、人文教育、愛国教育などに力を傾注しなければならない。
・ 国家市民証書を発行する。国家の市民がドイツ国の主人である。
・ われわれは人格の高いものを上位に置き、大衆をその下に置く。最良の頭脳を持った人物を、指導的重要性と指導的影響力をもった地位につける。
・ 政党は妥協に傾くが、われわれの世界観は不寛容である。
・ 大衆の関心をブレスト・リトフスクからヴェルサイユ条約に向けさせた。二つの条約を比較し、同盟国側の非人道的残虐さを説いた。
・ 赤色戦線との格闘において、われわれは場内整理隊を設け事にあたらせた。やがて我々の支持者が増え、集会に次ぐ集会になった。やがて場内整理隊は突撃隊となって我々を守った。我々は自分たちの力で1922年10月コブルグ演説を行った。

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