「私」のいる文章         森本 哲郎


新潮文庫

一般に新聞社に入って「私」が文脈から消えて「無私」の文章が書けるようになるには最低3年かかる。著者も新聞記者になって、自分の文章の中から「私」を抹殺する努力を二十数年にわたって続けたがいやになってしまった。自由に「私」のいる文章を書きたいと思った。そこで新聞社をやめた。しかし「無私の文章」になれた著者は、いまさらのように「私」のいる文章の難しさを思い知った。
なぜか、この世で一番厄介なのはほかならぬ「私」自身だからである。他人のことは分かっても自分のことはわからない。
文章を書くという作業は、何かについて書くことである。「私」のいる文章とは「私」について書くことだ。そのためにはなによりもまず、自分の中に、書くべき何かを育てなければならない。それだけではない。かりに自分のなかに書くだけのなにかが育ったとしても、今度はそれを表現することが容易ではない。
この作品は以上のような観点から、新聞記者時代の思いでをベースに、よきジャーナリストになるにはどうすべきか、ジャーナリズムとは何かなどについて、「私」のいる文章でエッセイ風に書かれている。一種の「文章読本」ともいえ、頷かされる所の多い作品で素晴らしいと思った。
第1部ぼくの取材ノートでは好奇心こそジャーナリズムの原点であるとしている。そしてその好奇心を駆り立てるために、書物に囲まれることの大切さ、人と議論する事の大切さ、自分のイメージを持つことの大切さとそれを変えることの大切さ等を説いている。最後にやっつけ仕事の意味と大切さ、資料を事前に調べることの大切さとその反対の曲にある行動することの大切さを説く。
第2部ぼくのインタビュー論ではインタビューの難しさと自分のインタビュー体験談を語る。良いインタビューをするためには良い質問を用意しなければいけない、とは名言であると思った。最後に雑談の大切さを説いている。
第3部のぼくのジャーナリズム感では日本のジャーナリズムが「型」にはまって同じことしか書かぬことを嘆き、調査報告ではなくもっと自分の意見を出すべきであるとしている。同時に読者にも新聞記者が同じ人間であることを説き、自分で判断することの大切さを訴えている。

・ 「おもろいと思ったこと、それがニュースや」「おもろいと思ったこと、それを調べればええのや」「おもろいと思ったこと、それを書きなさい」(32P)
・ 客観的でありうるためには、何よりもまず取材者の主体の確立、そして主体の確認が必要なのである。…・「既知の世界」を持たぬ人間が、どうして「未知の世界」に挑戦することができようか。(43P)
・ 判断というものは、知識の土台の上に組み立てられるものである。だから正確な知識を欠いていれば、正確な判断が下せようはずがない。「水かけ論」というのは、どちらにも正確な知識の土台がないところからおこるのである。(50P)
・ 議論には三つの種類があるように思う。第一は、あることがらに関する知識をめぐっての議論だ。…・・第二は、知識相互の関係についての議論と言うことになろうか。…・そして第三は、価値判断をめぐる議論。(53P)
・ みんなが知らないことを知らせるだけがニュースなのではない。みんなは知っていることを伝えるのもだいじなニュース報道なのだ。(58P)
・ 異質なイメージと共通なイメージ、その巧みな取り合わせの上にジャーナリズムは成り立っている。(65P)
・ 取材とは、既成のイメージが別の新しいイメージに生まれ変わる、その道行きのことなのである(79P)
・ この意味で、多分逆説めくが、ぼくは人間の仕事というものは、例外なく「やっつけ仕事」なのだと思う。「もうあきらめろ」と思い切り、そして目をつぶることだと思う。(89P)
・ 全くの自由人というのは定年後だけと言うことになる。(92P)
・ 歴史を形成する最後のものは宗教です。今後キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教などが互いに影響しあって新しい文明をうむだろうと思います。その新しい文明は、はっきりと予想できませんが、おそらくそれが歴史の次の章を開くでしょう。(トインビー)(123P)
・ 楽しき雑談…・これは現代においても切実な要求であり続けている(126P)
・ ぼくたちは、もっともっと「雑談」を楽しんでしかるべきなのだ。極言するなら、人生とは「雑談」そのものではないか。(139P)
・ ジャーナリズムは「偏向」の異名だと思っている偏向していないジャーナリズムなど、あり得ない。いや、偏向するからこそ、ジャーナリズムは成立するのである。(146P)
・ ジャーナリズムの条件とは、ジャーナリズムにまつわっている幻想を捨てること、「べき」や「ねばならぬ」から自由になること、安全保障から勇気を持って離れること、そして自分の目をもっと大切にすることだ。(152P)
・ 新聞人は、今日、余りにも「客観的な」報道中心主義を反省すべき時点に立っている。(157P)
・ けれども新聞を作っているのは、ごく普通の人間なのであり、読者も制作者も少しも違ってはいない。これを前提にしないと、つい、過大な期待を新聞に寄せることになる。そして、新聞は社会の様々な問題について、常に「正解」を、「模範答案」を印刷しなければならぬ、ということになってしまう。(189P)
・ ジャーナリズムの世界で、いや人生において、何よりも大事なことは、いつも驚きを失わないこと、人生という旅において、決して旅慣れてはいけないと言うこと…これである。それが人生を、「私」のいる人生にすることではなかろうか。(205P)
011020