文春文庫
ザビエルの謎
ザビエルは、日本史上で重要な役割を果たしながら、その素顔を案外日本人に知られていないのではないかと思う。作者は、ザビエルゆかりの地を訪ねながら、その足跡を通して、日本人の原像を浮かび上がらせ、ひいては国際交流とは何かを考えようというテレビ「歴史紀行」のキーマンを要請された。この作品はその取材活動をベースにしながら、ザビエル像を浮かび上がらせている。
ザビエルは、1505年、バンブローナから約四十キロの地点にあるナバラ州ザビエル村のザビエル城で生れた。十歳のとき、ナバラ王国が滅ぼされ、スペインに吸収された。バスク人は以後スペインからの独立を願い、過激な闘争を繰り返している。ザビエルはナバラ王国の名家出身で、純粋のバスク人であるからその闘争精神が脈々と流れている。
1525年ザビエルはピレネー山脈を越えてパリに出た。聖バルバラ学院に入学したが、当初は聖職者になる積もりはなかった。しかしルネサンスで勢いずいたプロテスタント派に対抗するためにイエズス会を創設したバスク人軍人、イグナチオ・デ・ロヨラの影響を強く受ける。このころポルトガルのジョアン三世はゴア、マラッカなどの東洋植民地支配の手段としてキリスト教を利用しようとしており、教義を世界に広げようとするイエズス会の熾烈な使命感と連携した。白羽の矢がザビエルにたち、1541年ザビエルはサンチャゴ号の客となって東洋に向かった。
マラッカで布教中彼は鹿児島を脱出してきた弥次郎にであった。弥次郎に感銘をうけたザビエルは日本の情報を集めた後15497年日本に向かった。鹿児島の島津貴久に謁見。ポルトガルなどに「日本での布教は利益に成る。」との手紙を送っている。一年間で鹿児島の布教を終え、山口の守護大名大内氏を頼る。謁見を許されたザビエルは、仏教の偶像崇拝や男色に走る僧侶たちの私生活を激しく非難すると共に布教の重要性を説いた。しかし大内氏が陶氏に倒され、仏教会からの反対も大きく、大分大友氏を頼った。一時的には成功したが、大友氏が島津氏に敗れてそれまでとなった。天正少年使節がでたのもこの頃。
その後ザビエルは明国に行くことを考え、マラッカに戻るが、明国貿易で利を得ている現地の艦隊司令官アタイデと対立、一時はアタイデを破門して乗り切ったかに見えたが、結局明国行きを前にして不審な死を遂げた。日本ではイエズス会日本管区長ガスパル・コエルオを中心に、布教のため日本を占領する計画が練られた。しかしいち早く危険を察知した秀吉に宣教師の日本追放、キリシタン禁令などを出され、万事窮した。ローマのイエズス会本部には中国占領まで含めた壮大な計画に着いて記述した書類がある。
以上が概要である。ザビエルが最初から日本占領を計画していたかどうかは不明だが、「国民の歴史」などにあるように布教が領土拡張あるいは商売繁盛とセットであることが良く分かる。この作品の書き方の面白いところはあくまで旅行記の体裁を取りながら、その実かなり資料を調べ込んで書いている点だ。物語性は少ないが読者に納得させるには、語りやすく良い手法かも知れない。
コロジオン伯爵の行状
コロジオン伯爵というのは幕末来日し、東海道の宿など多くの写真を残したイタリア人写真家ベアトの事である。この作品は馬関戦争で英国軍などが前田砲台を占領したときの写真から解き起している。ベアドは1863年のスフィンクスを背景にした池田遣欧使節団、1860年のアロー号事件、などの写真なども撮っている。
ナイアガラの滝
運河の国に遣る日本史
大陸の地下宮殿
以上略
010308