山内一豊    小和田哲夫

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歴史を本当に知ろうと思えば原典を読み、現場に行っていろいろ考えなければならぬ。しかし素人はそんな閑はないからTVやラジオあるいは小説など読んで思いを重ねる。しかし真実を少しでも知りたくそこに有名学者のまとめた解説書などが登場する。
NHK大河ドラマでは千代の活躍ばかりが目立ち、一豊はただ強いだけのいのしし武者にも見えるが、本当か、真実を知りたかった。


結論から言うと本能寺の変で鉄砲を使う信長、お濃が現場にいたなど史実にはない嘘をご都合で作り出したこの放送も、そのほかでは考えられる史実に沿っている。
「はじめに」にあるように、信長・秀吉・家康3人に仕えた武将となると数えるほどしかいない。それだけ戦国時代にとって生き残る事が難しかった時代だといえる。遊泳術がうまかった、日和見的だなどの指摘もあるが、戦国の武士たちは近世武士道とは違う戦国武士道を持って、自らを律していたのではないか。それは「いかにして家名を存続させるか」ということに尽きるのではないか、と著者は指摘している。


慶長五年(1600)九月の関が原の戦いで山内一豊等は、西軍の南宮山の陣取る吉川広家等の押さえに回った。吉川広家は家康に「戦いには加わらない」と約束してはいたが、家康としては万が一の手を打っておきたかったのであろう。結局中立組は動かなかったから、山内一豊以下はほとんど戦いに参加することはなかった。
しかし論功行賞で六万石の山内一豊は土佐二十万二千六百石を与えられる。家康の息子たちの結城秀康、松平忠吉等を別にすれば破格の扱いであった。これは何に由来するか。


家康はその年の六月、大阪城をでて会津攻めにむかった。東海道には山内氏、中村氏堀尾氏等が家康の押さえとして配置されていた。ところがこの家康一行を、一豊は東海道の難所の一つ小夜の中山で饗応接待し、さらに一週間近く掛川城に滞在させた。
「笠の緒の文」事件。家康が小山近くに陣を張っているときに一豊のもとに大阪の千代からの密書が届いた。編み笠の緒によりこんだ密書と文箱をわたし、前者を先に読むようにと伝言。一豊は言われるままに読むと、文箱の方は封をしたまま家康に届けさせた。文箱の中身は三成派の増田長盛、長束正家連署の一豊あてさそいの手紙であったらしい。家康は翌日の豊臣諸大名の帰趨をきめる評定でこの密書を利用し,高く評価した。
次ぎにその小山評定で家康が豊臣大名に「去就は自由である」と述べたのに対し、一豊は「掛川の城を献上するから利用して欲しい」と申し出た。家康にしてみれば小山評定の流れを決定ずける価千金の発言であった。
是に対し長宗我部盛親は時のながれのままに西軍に味方するも、動かず、敗色濃厚となってからそのまま国に帰ってしまった。井伊直政の働きかけで謝罪に赴くが、所領安堵あるいは所領半分安堵の期待もむなしく、所領没収を言い渡されてしまった。


こうして山内氏は土佐に入る事となるがそこでまた一苦労あったことはTVのとおり。
平和が訪れてから一豊がうった重要な次の一手は徳川氏と姻戚関係を結ぶことであった。慶長十年五月、一豊・千代は伏見で家康・秀忠父子に謁見、忠義(国松)と家康の幼女阿姫(松平定勝次女)との婚約を成立させた。これで役を終えたと感じたか、その九月に死去。千代は出家し見世院と名乗った。
以上であるが、一豊など東海道の豊臣大名が寝返った背景には、秀吉が晩年来るって秀次事件などを起こし,次第に支持を失っていたことにも起因しているとする。
一豊の世の中を見た賢い動き・・・・しかしこれは会社社会でも必要な動きなのかもしれない。

070404