副題に「戦争を知らない人のための」とある。彼女は1930年生まれのノンフィクション作家。29pに長野高女1年で軍需工場に派遣されていた頃の写真があるが印象的、鉢巻の日の丸には神風を書かれている。彼女の靖国に対する思いの原点はこのころのあの「朝日新聞」もあおった「お国のために死んで帰ろう」と言った時代のムードに呼応している。
靖国神社は騒ぐ割に知られていない。著者が30-40代の夫人たち300人ほどの集まりで訪ねたところ、行った事があるのはわずかに2人、所在を知っているのは4人であった。
遊就館は零式戦闘機、魚雷などを展示しておりほかに例を見ない博物館である。
映画「東京裁判」でも示された、極東軍事裁判は、戦勝国の報復裁判である。しかし日本は敗戦国としてそれを受け入れた。そして1952年、戦犯の命と引き換えにサンフランシスコ平和条約が締結され、日本は平和を取り戻したたのである。どんな罪にしろ裁判の後判決を受け、判決どおり処刑されればその罪は一件落着である。一事不再理は秩序ある社会の鉄則だ。戦後60年すぎてからA級戦犯とB,C級を分け,A級戦犯を祀るところへ首相が参拝するのは怪しからんなど言われてたまるか。
日本人の手によって裁くべきだった、などの議論は無茶な注文だった。
また東京裁判で裁く側に立っていた11カ国に中華人民共和国は入っていない。毛沢東が天安門でその名乗りを上げたのは翌年である。韓国もはいっていない。両国にこの問題を云々する資格はない。
サンフランシスコ平和条約は合計47カ国が参加しているが、中国(中華人民共和国と中華民国)、韓国は参加していない。二つの中国の代表権問題でアメリカ、イギリスと意見が一致しなかったためである。この条約にはつぎのようにある。
・ この条約に署名・批准していない国には、この条約に関するいかなる権利も権限も与えない。またこれらの国によって日本の権利が「減損され害されるものではない」
条約が締結されると、日本はすぐに戦傷病者戦没者遺族等援護法を成立させ、遺族年金の補償を始めた。3年以上の懲役者等は恩給の対象にならないが、戦犯については「法務死」と呼び変えて問題を解決した。この時点で日本は独立国として戦犯による刑死も含めてすべて国家のために犠牲になったとして差をつけないものとした。関係諸国の領海を取り付け、巣鴨プリズンを閉鎖し、BC級戦犯を靖国神社に合祀した。1969年に靖国神社の国家護持法案が激しい議論にさらされ、5年後に廃案になった。そのためA級戦犯の合祀は遅れて1978年となった。
靖国神社に敗戦の日に参拝したのは1975年の三木武夫が始めてである。中曽根首相は1983から85年まで3回続けて訪問したが、以後一切行っていない。これは新日鉄の稲山嘉寛名誉会長を通じての中国からの要請に基づくものであった。
最後に著者は靖国参拝問題について、わが国の見解(案)を示している。そのポイントは
1 A級戦犯はすでに裁判を受け、その結果を受け入れ、彼らの命と引き換えに、平和条約が締結され世界は平和になった。
2 靖国神社は日本のため命をすてた人の慰霊の場として建てられた。サンフランシスコ
平和条約締結1ヵ月後吉田首相以下が参拝し、独立日本の公式行事とした。
3 以上のほか平和条約発効後、日本は、戦死者、戦傷病死者、戦犯刑死者を国家のために命をささげた人として差別をつけず祀っている。A級戦犯分祀はこの考えから外れる。
4 サンフランシスコ平和条約には、戦争裁判の蒸し返しにならぬよう種々の規定が設けられており、日本はすべてクリアーしている。この条約には、批准していない国にいかなる権利、権限、利益を与えぬ、としている。中華人民共和国、大韓民国、中華民国台湾はいづれも署名・批准していない。
5 東京裁判でバール博士が主張するとおり、当時各国には交戦権があり、他国に対する武力行使を犯罪とする国際法は存在しなかった。従ってA級戦犯が問われた「平和に対する罪」というのは、犯罪には該当しない、と考える。
読み終えて、靖国で会おう、を合言葉に、青春時代をすごした著者ならではの意見である。国家の未成熟な段階で、天皇を神とし、戦意高揚に務め、全体主義を守り立ててゆく過程は必要であったし、遺族の援護を保障したのも当然の関係だったろう。しかし一方で著者の言う「近代国家に生まれ変わった日本に靖国神社がこのままの状態でよいということはありえず、関係を打ち切るためには国家としてしかるべき宣言が必要だし、存続させるならば事大に即応した新段階への手続きが必要だろう。」との主張もまた当然である。そのためにはA級戦犯分祀などの対処療法的議論でなく、現実も踏まえた本来どうあるべきかとの議論が必要であろう、と感じた。
060814