岩波文庫
この書はシーザーが暗殺された前44年頃「老年について」の姉妹編として書かれている。優秀で、弁論の才能にたけ、若くから元老院でも大きな力を持っていたが、ローマにシーザーが攻め入ったときに、中立の態度を取り、引退同様になっていた。そのシーザーがブルータスに暗殺され、第二回三頭政治の世になったときアントニウスに憎まれ、この書を著した翌年、64歳で殺害された。この対話編は前129年、カルタゴを滅ぼした小スキピオの死後まもなく、60歳前後の残された親友ラエリウスが二人の娘婿を前にして、友情について語るという形式をとっている。実は原題はラエリウスになっている副題に「友情について」とあり、今日ではむしろそれが通り名になっている。
ここで著者が取り上げる友情なるものは、ごく世間並みの友情を言うのではない。「史上稀有なる人々の結んだような、真の友情、完全な友情」で、そのような友情は「順境を一層輝かせ、逆境を分かち担いあうことで軽減してくれる」ものである (6章)。一方で「遊び仲間として好きだった人を親友にしなければならぬいわれはない。」(20章)もちろん、当時の社会環境を考えればわかるように、異性との友情関係は考えられていないようだ。
そして人間生活において友人が不可欠であることを、23章で「神様がわれわれを人間の寄り合う場所から連れ去り、どこか独りぼっちでおく。・・・・・(ロビンソンクルーソー的生活である)・・・・こんな生活に耐えられるほど、・・・・鉄のような心を持ったものがいるだろうか。」ともしている。
間違ったことをする友人に、手を貸さなければならないか、という命題が挙げられる。これに著者は「恥ずべきことは頼むべからず、よし頼まるとも行うべからず。」としている。(11章―12章)
見せ掛けの友情について激しく非難している。「一体自分が恐れている人を、あるいは自分を恐れているかも知れない人を愛する者があろうか。」とし、ある暴君がついにその地位を追われて亡命の身になったとき「どの友が忠実でどの友が不実であったか、もはやどちらにもお返しできないときになって分かった。」と語った例を引いている。(15章)
24-25章では「友情には阿諛、おべっか、追従以上の害毒はない。」と断じ、反語的に「世辞は友を、真実は憎しみを生む。」というある劇からの引用もあげている。
そんなわけだから、友人を慎重に選択することを要求し「友情を構えるに際しては、いつか憎むことになりそうな人は決して愛し始めぬよう、そう心してかかるべきだ。(16章)」一方で、相手からも認められる事が必要で、そのために自分自身の徳を磨かねばならない。5章で「第一感として、秀れた人々の中にしか友情はありえない。」とする。
いったん得た友は親愛の情をできるだけ続けるために、次のように述べるが、この辺が著者自身も自己の生き様を振り返って苦しんでいるようにも見える。
「友人の生き方が非のうちどころなき場合には、すべてにおいて例外でなく考え方の一致、やりたいことの一致があってよい。しかし、もし何かの拍子に、友人のやりたい事が正しくないのに、生存権や名声がかかっているため、それを手助けしなければならなくなった場合には、余りにも恥ずべきことにならぬ限りにおいて、道からはずれてもよい」(17章)
しかし実際は苦しい選択を迫られるケースもあるようで
「名誉公職や国政に携わる人々の間に真の友情を見つけるのは至難のわざだ。」(17章)と本音を述べている。
以上述べられているように、内容は現代のわれわれの生活にも通じる妥当なものである。この書を読みながら考えたこと・・・・私自身は友人について次のように感じている。「学校時代の友人など利害関係のない友とは友情が芽生えやすい。」同じ釜の飯というのはそれだけで似たもの同志というレッテルが貼られ親しみやすい。一方で「会社関係などいささかでも利害関係のある友とはそういったものが生まれにくい。」「全く違う世界の人とは親しくなりにくい」などとも感じる。しかしそういった中で友情をはぐくむにはどうすべきか・・・・なかなか難しい。
050305