善の研究  西田幾多郎

岩波文庫

明治43年に出版され、大正・昭和を通じて、哲学専攻者の間だけでなく、一般読書人にも愛された著書。日本人による最初の独創的な純粋経験の立場から組織された哲学体系である。かなり難解な書物であったので自分自身の整理も含めて章ごとに言わんとしているところをまとめてみた。

第一編 純粋経験

経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったくの自己の細工を捨てて、事実に従って知るのである。

思惟というのは表象間の関係を定め、これを統一する作用である。その最も単一なる形は判断であって、二つの表象の関係を定め、これを統一する作用である。

意志は動作を目的としこれを伴うのであるが、本質的には精神現象であって外界の動作とは別物である。意志と知識の間には絶対的区別はない。

知的直角と言うのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっているものの直覚である。弁証的に知るべき者を直覚するのである、たとえば美術家や宗教家の直覚のごときものを言うのである。思想はこの上に成立するのである。

第二編 実在

天地人生の真相はいかなるものであるか。真の実在とはいかなるものであるか。我々自身の意識現象が唯一の実在である。主客を没したる知情合一の意識状態が真実在であり、常に同一の形式を有している。実在は意識活動で、単独にはその時々に現れまたたちまち消え去るものである。同時に相互の関係で成立する者でり、宇宙は唯一実在の唯一活動である。実在は統合と分化を繰り返している。

第三篇 善

行為は意識されたる目的より起こる動作のことである。意志は意識現象の一つで、観念統一の作用である。思惟、想像、意志の三つの統覚はその根本において同一の統一作用である。行為を分析して意志と動作にするが、この二者の関係は、原因と結果の関係ではなくむしろ同一上の平面である。

意志の自由というのは観念成立の範囲内における選択の自由をさす。そこで我々は第一に現象あるいは出来事を如何にしておこったか、なぜかくあらざるべきかを原因および理由を考究し第二に何のために起こったか目的を考究する。その結果として我々の行為の価値的判断をおこない、善悪を判断する。

善とは善悪の標準を人性以外の権力におこうとする他律的倫理学説と人性の中に求めようとする自立的倫理学説に分かれる。別に直覚説があるが容易に否定される。他律的倫理学説には権威説、道徳説などがあるが「なぜに我々は善をなさねばならぬか」を説明できぬ。自立的倫理学説には主知説、快楽説、意志の活動を元とする活動説があるが、結局のところ、善はなんであるかの説明は意志そのものの性質に求めなければならず、言い方を変えれば理想の実現、要求の満足である。しかし善は人格の実現で、放縦無頼の行為を言うのでない。完全なる善は小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達にいたってその頂点に達する。

第四篇 宗教

宗教的要求は自己の生命に対する要求であり、安心のため、利己心のためなどに宗教を求めてはならない。宗教とは神と人との関係である。超越的神が外から世界を支配すると言う考え方があるが、間違いで宇宙の内面的統一力である。自己の根底において直に神を見れば無限の暖かさを感じそれゆえに神に真の敬愛を抱く。愛というのは二つの人格が合して一になるの意味である。宗教の真意は神人合一の意義を獲得するにある。

神は人格的であるが主観的精神と同一と見ることはできない。むしろ主客の分離なく物我の差別なき純粋経験の状態に比すべきものである。神の性質および世界との関係はすべて我々の純粋経験の統一すなわち意識統一の性質およびこれとその内容の関係から知ることが出来る。しかしそれはまた個人の内面における葛藤の歴史である。悪についてはこれを経験することにより、深く神を知ることが出来る。

最後に知と愛は相互補完の関係にある。知ることによって愛し、愛することによって知ることができる。

021223