ちくま新書
玄侑宗久氏の本もこれで4冊目である。たとえ話や引用が多くなかなか理解しがたいところが多いが、私が理性だけで物事を捉えようとしているからだろうか。
最初に「決め付けてはいけない」として、無可無不可(可もなし不可もなし)について述べる。西洋的思想では理性がすべてを把握するが、自分の可能性は本来は無限である。心も体もある程度コントロール出来る。出来るかできないかを判断するのは自分自身をみくびることだ。無可無不可と考えてリラックス。
禅は記憶の残像によって汚れた心をバカにしつつ、「明鏡止水」の仏性などと呼ばれる清らかな心に到達しようとする。しかし言語はどうしても総体から部分を分けようとする。感覚もまた同様である。結局、禅は体に働きかけることによって「全体的自己」を完結しようとする道ではないか。
人の脳機能には全体視機能、還元視機能、抽象機能、定量機能、因果特定機能、二項対立判断機能、実存認知機能などがある。これ以外に情緒機能がある。これらが渾然と成って煩悩が作り出される。
苦しみや悩みは時間によって合成される。「歴史」とは無数の因果関係から適宜につんだ糸で作られた、きわめて恣意的な織物だ。禅では時間そのものが溶け合った瞑想(三昧)状態では苦しみや悩みも住みにくい、全て先入主のない心が作られると考える。
たどり着いた本来の心に、世界はどんな風に見えるだろうか。心に引っかかる閑事がなくなればたとえば季節の風物だって我々に福音を与えてくれる。十牛図にはありのままが見えるまでの道程が描かれている。禅は何かを拝んだり頼ったりする事が宗教だとは思っていない。不遜に聞こえるが、禅が重視するのは全き自由である。
日々是好日というのは、一日を独立したときと考え、嵐の日も風の日もよい日、今に最大限投入して楽しみつくす状態だろう。過去の自分はすべて今という瞬間に開かれている、そして未来に何の貸しもない。これを腹に心底据えて生きれば何時何処で死んでもよいという気持ちになるだろう。現実には何かの役を演じ、その分野では「主人公」になっている。禅はそのときには主人公役になりきるために、日常を重視するよう要請する。
ただし是だけでは危ない。太平洋戦争では禅僧たちの説教が戦意を多いに高揚してしまった。あくまで自律的に選択的に受容し、実践していただきたい。
人殺しも泥坊も状況次第では自分がなしうること。「乾坤只一人」である。良い生活習慣をつけよ。それでいて悟りの境地に至らず、次の1歩を踏み出せ。「百尺竿灯に1歩を進む」自己は何か、死ぬまで問い続けねばならぬ問である。等身大の自己を生活の中において眺め、たった今の気分を全面的に自主的と認めよ。「知足」とはわが身の現状を完全に肯定する大事業。歳をとればどんどん頑固になるのではなく、柔軟でしなやかになれ!
安心立命。志をたてよ。「お天道に恥ずかしくないように生きる」「人様にご迷惑をかけないように」そんな制限の中で。禅はたった今の自分の役を一つに絞り込もうとする。この絞り込んだもの本来変わってゆくが、無方向では社会的生物としての人間の役をなさない。ある程度の輪郭・一貫性は必要だ。そのための「方便」として設けるものが「志」である。ただ「志」を強く意識しすぎると行き詰まることがある。
犬や猫とは違う究極の人間ワザは、「風流」を味わう、ということだ。風流とは「ゆらぎ」で、是を楽しむ能力こそ人間だけの最高度な楽しみである。不足や苦痛など、思うようにならないものを楽しむ余裕といってもよい。望まない不足をも、楽しめることが真の「風流」であり、それができる人が「曲者」である。
人は煩悩妄想なしでは一日として暮らせない。それは差別の世界であるから、比較して争いを生み出す。積み重なった思い込みが「でっち上げの我」として他人とぶつかり、傷ついたり傷つけたりする。怒っているときに、お互いに「乾坤只一人」を方便として演じていると意識し、「回向返照」して「本来の面目」「本来の田地」に戻る事が大切だ。
070404