著者は1907年栃木生まれ、大正大学文学部卒で大学教授などのほか日光山華厳院の住職を務める。初版がでたのが昭和38年というから、56歳のときに書いたことになる。
著者は「日記はつけていない」と断りながら「気がむけば、その日に感じたことや考えたことを原稿用紙に書いておく習慣がある。」そうで、それが大分たまった。それを「現代生活に密着した禅」「禅そのもの」の観点からまとめなおしたものである。
エッセイ集の趣だが、文章はなかなかうまい。私は座禅などやった事はない。この書について語る資格はないが、禅そのものの考え方はおおいに参考になったように思う。
座禅の仕方について著者の経験からでた話が詳しい。「鼻とヘソを垂直にせよ。」という視点はなるほどと思った。座禅の座り方は両方の足先を腿の上にのせて座るのだが、うまくゆかぬから、片方だけにして鼻とヘソを垂直にし、目を半開きにしてみた。少し心が落ち着いた気がした。
妄想と雑念をどうやって追い払うか、これが座禅のポイントのようである。技術的な話はおくとして「静寂な禅堂の中に半眼で端座していれば、自分の心とおつき合いをしているのか、自分の心を見物しているほかに仕方がない。思い切って一週間ほど、自分の心とだけおつき合いをしてみると、相当に深いおつき合いも出来るし、かなり徹底した観察もできる。」(246p)としている。
著者はあとがきで、従来の禅に関する本は「難しい禅の用語の解説とえらかった人の昔話でごまかされて、そのくせ難しいのを我慢して読んでゆくと、禅は言葉では説明できるものではない、といわれる。」と書いている。
しかしそれだからといってこの書を読んで禅が分かるか、というとそういうものでもないところにもどかしさを感じる。わずかに
「禅は、その場その場でそれになりきることであると同時に、果てしのない進歩の中に自分を活かす道でもある。その場その場に自分の全能力を惜しみなく発揮する訓練であると同時に、それがそのまま、その能力をいよいよ向上させる訓練になる。」(222p)
「どんなことでも、一生に一度しかやれないという自覚のもとに、つねに真剣に取り組むのが、禅の生活である。」(232p)
あたりがヒントになるのだろうか、と感じた。
新入社員の訓練効果に「禅寺のきびしい戒律」という意見が多かったが、これに危惧を表明されている点が印象に残った。
「戒律のうち、律は教団が、その団体の統制を維持するために定めたルールのようなもので、「xxすべからず」式の他律的で消極的なものである。これに対して戒は「xxすべきである」「かくあらねばならぬ」という理想を含んだもので、生活環境を改善し向上させる事が狙いである。律にこだわりすぎることなく、戒を重視して欲しい。」
最後に私自身の趣味である茶の湯について、つぎのように書いている。断っておくが著者はお茶をやったわけではない。
「だから、お茶は、うまくさえたてばどうたててもいいのだが、うまくたてるためには、まずそれら苦心の結晶であるお茶の作法を、完全にわが身につける事が大事らしい。四角張って形だけを教えているような茶道のなかには、禅はない。したがって、それは茶禅一味という茶道でもないし、またお茶でさえもない。」(119p)基本的には同感しながら、私も著者のいうように一方で「たしかにお茶が、好きは好きだ。」である。
またお茶の掛け軸でよく見かける「喫茶去」というのはひとつの公案になっているのだそうだ。「お茶をあがっていらっしゃいいな。」ということだが、ある禅師はどんな質問をしてもこれしか答えなかったという。お茶を飲んでゆけ、という一語だけで、りっぱに教育をほどこし、禅の道を伝えた、と著者は説く。未熟の私にはどうもわからぬ。